それは裏切りだった。僕たちは、諦めることも諦めないということもしないはずだった。
「……やっぱり、わたしもあの人たちの娘なんだね。諦めるたら、すごくラクになれるって、分かっちゃったの」
自分の領域を侵されることにはもう慣れてしまったよ。
そう言った彼女は、平静だった。何の変哲もなかった。だから、それが僕を裏切る言葉であると、彼女は気付いていないのだと思った。
――ちょっと待てよ。それじゃあまるで諦めるみたいだろ?
――――それは僕への裏切りだ――――
教えてやったら、彼女は。
うん、そうだね。ごめんね。でもやっぱり、私はあの母さんと父さんの子供なんだよ。
僕と彼女は違う人間だけれど、それぞれの両親にとっては同じような存在だった。
イヤなのよ、あの子。何もかも諦めきってます、って顔して。だってまだ子供じゃない。なんであんな風なのかしら。すごくイライラしてくるの。
それはそれは本当に苛立たしげに、僕の母さんは愚痴りながら煙草を吸っていた。こぼす相手は父さんでない誰かで、その男と母さんがどういう関係なのかなんて、当時の僕にはとっくに分かっていた。どんな知識も、大人が思うよりずっと早く子供には入ってくる。
僕が押し込められていた部屋には窓がたった一つ、街路をかすかに見下ろせるだけの幅と高さ。背を伸ばすと辛うじて、行きかうスラムの人々が見える。その全ての人たちは、無表情で黙りこくっていて、よろよろと歩いていた。空っぽに見えた。その時の僕も今の僕も、彼らに強い意志を見出すことはできない。
そんなものを見続けた僕に、どうして執念深く諦めずにいるなんていう事ができると思えるんだろう。
だから僕は、何もかも諦めることにしていたんだ。
彼女と会ったのは、そのままそのまま惰性的に日々は続いて僕も母も父も知らない誰かも変わらずに、僕が十六になった時だった。
僕がいつも行っていた路地裏で、彼女と僕は邂逅した。
「邂逅」という仰々しい言葉を使いたくなるような、それは運命だと僕は思った。
「ねえ。何やってるの?」
もちろん僕はその時も、何もかもを諦めていて、だから答えることも億劫だった。
だまって煙草を取り出して、安いライターで火をつけた。
健康を気にしたりはなかった。母親の腹の中にいたときから、ずっとヘビースモーカーだったんだから。
「あ、煙草はやめときな? 吸うのはいいけどわたしが嫌いだから」
にっこりとか優しくとか、そんなのが似合わない笑顔だった。にぃッ、っと口を吊り上げて笑った。
「あなたさ、何でもかんでも諦めてかかってるでしょ」
そう言われて、僕はようやく彼女に正面から顔を向けた。美人でもなく可愛くもなく、ただ魅力だけがある顔だった。
「わたしはね、絶対なんでも諦めないの。そんなの、何があってもいやだから」
そう言われて思ったのは、「ああ、あいつと同じ人種か」ということだった。もとからゼロだった興味や好奇心が、マイナスにまで落ちていく感覚がした。
「だからね、何であなたが諦めてるのか。不思議なの。ねえ、どうして諦めてるの?」
それは、初めて言われたことだった。僕の諦めをなじるだけの母には、ありえないことだった。
彼女に問われるずっと以前から分かっていたことだったけれど、僕の諦めには理由がない。母への反発とも周りの環境とも考えられたが、そのどれもが僕の意思とは関係のないもので、そこに原因を置くのは無責任な気がしていた。加えて彼女は堂々と自分が諦めないわけを説明したものだから、僕はとてもそんな風に他人のせいにする気にはなれなかった。
だから黙っていた。
今になれば思うけど、きっとその時の僕は、初めてそんなことを問われて困惑していたんだ。
だから黙っているしかできなかった。
「でもそんなの、理由なんて無いのかな。わたしなんて、諦めるのが嫌だから諦めないけど、それも親に反発してるだけだしなあ」
僕の足元にストンと座り込んで、彼女は考える顔をした。
見下ろした彼女の言ったことに、思わず僕は。
「……オヤ」
言葉が、零れていた。
「何かいった?」
呟いた僕を、彼女がまっすぐに見上げる。視線が直にぶつかった。
「親、何でも諦めてるようなやつなのか?」
きれいだねと、このあと彼女に何度も言われることになる僕の声は、ずっと出していなかったせいで嗄れていた。
「うんそう。小さい頃から言われたよ。何でも手に入るわけじゃないんだから、何かに執着するなんてやめておけ。辛い思いをするだって」
「男親?」
「うん。母親は知らない」
ああそういえば、この街で両親が揃っているのは『シアワセなコト』だった。
「――俺のさ、親」
「うん?」
「絶対諦めたりしないって、おまえみたいなヤツで。ガキのころからどうして何でも諦めてかかるんだ、って。それですっげぇウザがられて」
気が付いたらば、身の上話を始めていた。
「わたしとしてはいい親だと思うけど」
「よくねえよ。だいたいあんなの自分の考え押し付けてきてるだけだ」
「自分は諦めないんだからお前も諦めるな、って?」
「そうだよ。俺はあいつと同じ人間じゃない」
「ああでもそれはわたしも思うなあ。きっとさ、わたしたちの親って、わたし達のこと考えて諦めろとか諦めるなとか言ってるんじゃなくて。自分たちの考え認めさせたいだけなんだよね。自分は正しいって思ってるんだ。むしろ今まで信じてやってきたこと否定されたくない、ってとこかな」
「そんなの誰だってそうだろうけどな」
「うん。でもそう考えちゃうとさ、わたし達って、親の影響そのまま受けてるんだね。諦めるなって言われたから諦めなくなったし、諦めろって言われたから諦めない」
「それでも、今さら変えられねえよ」
「うん、そうだよね。だって諦めたら――」
「諦めなくたって――」
『――何にもならないんだから』
それからだった。僕たちは、それから真剣に、諦めるということ諦めないというこについて互いに意見を出してあって考えた。親への反発から、それぞれ頑なに拒んできた諦めること諦めないことに対する執着の全てを捨てて。
そして最後の結論に達したんだ。
諦めても、諦めなくても、何もないから。諦めるということと諦めないということは同じだから。
諦めるということも、諦めないということも、ずっとしないでいよう。
それは、二人だけの、ちっぽけな宣誓だった。
「俺は」
「私は」
『諦めることも、諦めないことも、決してしません』
僕は、ふたりのそれまでの生き方が融合した事で、まるで彼女と何もかもを共有しているかのような気になった。
ひたすらにうれしかった。
人は変わる。
運命だと信じて疑わなかった彼女との出逢いは、彼女の諦めによっていともあっさりと偶然に変えられた。
そうして僕はまた、何もかも諦める日々を繰り返している。