ほんの数週間前からの日課だったが、それは既にして、彼女の生活の中で絶対的なものになっていた。決して欠かさない。
公道に面したそこは、夏の日差しの下、育ちすぎた街路樹にさわさわ、さわと、侵略されている。
「おはよう」
樹に、声をかける。この街路樹に会うことが、彼女が毎朝ベランダへと出る理由。これ無くして、彼女の一日は始まらない。
そっと手をのばす。すぐそこに在る枝葉にではなく、手すりから少し身を乗り出さなければ届かないところへ。
更に口を開いて、言葉を続けようとした、その時に。
「おはようございます」
律儀そうな、男の声がかけられた。声に導かれるまま振り返った先、隣室のベランダ。そこに立っていた男は、彼女とは対照に、随分とラフな格好をしていた。銀のフレームが上半分にだけついた眼鏡は、理知的というより柔らかさを感じさせた。
彼女と同い年か、もしかすると年下かもしれない。大学生という可能性も否めなかった。
「おはようございます」
他に返す言葉もなく、オウム返しになってしまう。応えながら、ベランダから随分とはみ出ていた体をさり気無く戻した。
「その樹」
どこか無愛想で唐突な喋り方だったが、礼儀はわきまえた声音だった。不快にはならない。
「邪魔なんじゃないかと思ってたんですけど、そうでもないみたいですね」
男が見ているのは、彼女ではなく、緑濃く茂る街路樹。
「え? ああ、もう慣れてますから。むしろ愛着まで湧いてるくらいで」
彼女自身は男を見て、微笑みながら返す。人の内面まで踏み込めない分、彼女は対面を取り繕うのが非常に巧い。
「――あの、最近越してこられた……んですよね?」
彼女がベランダから街路樹に声をかけるようになった頃、隣室は空家だったはず。
「ああ、そうです。まだ……十日? くらいしか経ってませんよ」
空を見つめて、引っ越してからの日数を頭の中で数えたらしい。
「ご挨拶に伺うべきかとも思ったんですけど、今時マンションで部屋が隣だからってだけでわざわざお邪魔するのも悪いかと」
「そんな、遠慮しなくても良かったのに。せっかくお隣なんだから、何の交流も無いんじゃあ勿体ないじゃないですか」
言っている彼女自身、それが社交辞令なのか本音なのか、分かってはいなかった。
「そうですか? そう言って頂けるとありがたい」
眼鏡の奥で、男の目が笑った。開けっぴろげな笑顔ではないが、その分作られたものでは無いような。
「あ、すみません。こっちから声かけといて何なんですけど、そろそろ出かけなくちゃなんないんで」
部屋の中を振り返り、男が言った。時計を見たのだろう。
「とんでもない。少しでもお話できてよかったですよ。――あの、失礼ですけど、大学生の方、ですか?」
「いえ。フリーター、です。いわゆる。これからバイトなんですよ」
「ああ……がんばってくださいね」
何を頑張るのだかは知らないが、とりあえずそんな言葉が口から零れた。
「ありがとうございます」
また笑ってから、男は部屋へ戻った。きっちり窓を閉めたのは、クーラーからの冷気を逃がさないためか。
浮かべていた笑顔を意識的に消して、彼女は男の部屋に背を向け視線をもどす。そこには、街路樹と、そして――
大丈夫みたいだな、と思う。
隣に住む女性の事情を聞いたのは、引越しの荷物を全て運び込んで、運送会社のスタッフ達もみんな帰ったあとだった。大家に簡単な挨拶と説明を受け、その時にさらりと言われたのだ。
今、君のお隣さん、大変な時だからさ。歳も近いし、相談に乗ってやってよ。
年齢だけで初対面の相手にいきなり悩みを打ち明けるような人間もいないだろうに。その初老の管理人の軽率な考えに呆れ半分になりながら、それでも事情を聞いてしまった以上、放っておくこともできなかった。
うまくタイミングを計れずに、多少時間は経ってしまったが。
隣の女の子、恋人と同棲してたんだけどね。まだそんなに日も経ってないんだけどさ。その彼氏の方が、ここの屋上から間違って落ちてさ、亡くなったんだよ。
そんな話聞いてなかったぞと、だまされたような感覚も味わいながら、まるで陳腐な恋愛ドラマのようだと思った。
一瞬、ほら、そこの街路樹に引っかかりかけたんだけど、結局そのままスピードも変わらないまま地面に叩きつけられて――お二人、本当に仲が良くってさ。
彼女、事故のあとはしばらく放心状態だったんだよ。今は気丈にふるまってるけどさ――
平気な顔でプライベートを喋る大家に嫌悪すら覚えかけながらも、その話は、無視してしまうにも忘れるにも、衝撃的すぎた。
何しろさ、その、恋人が落ちて、そこの樹に引っかかりかけたところを、ちょうど彼女、部屋の中から見ちゃったらしいんだよね。そりゃもうすごい悲鳴あげてさ――
それでも、流れて行く日常に。彼女は、もう追いついているように見えた。気遣いだけは忘れるつもりは無かったが、そこまで過敏になる必要もないだろう――。
多少冷淡かとも思いながら、男は急ぎ、出かける支度をはじめた。
部屋は、静かなものだ。交通量の多い道に面しているだけあって、防音対策はしっかりとなされている。
外の音なんて、何一つ、届きやしない。
彼女は、またもう一度、男が声をかける前と同じように、樹に、その一点に、手を伸ばした。
「――ええ? やだ、そんなに怒らないで。ただのお隣さんじゃない」
虚空を見つめて、彼女は困ったように嬉しそうに、穏やかに微笑んでいる。
「大丈夫よ。だってそんな、もうめったに喋ることなんてないわよ。私が好きなのは、あなただけだもの」
囁きなのか呟きなのか、彼女は延々と言葉を紡ぐ。
視線の先、そこには街路樹と、そして――愛する恋人が。
「ずうっと一緒ね? 一緒にいるのね?」
見えている、彼女だけには。それはそれは美しい、純白の羽を生やして、天使となった恋人が。枝にふわりと腰掛けている。
「私がここにいる限り、あなたは私の側にいてくれるのね? ――もちろんよ、私はここを離れたりしないわ」
彼女の視界で、天使は、恋人は。彼女以上に優しく微笑んでいる。
「いつまでも、一緒にいるよ。君がここを離れなければね――」
その言葉に、彼女はわらう。
「本当に、ずっと私と一緒にいてね。」
――――愛しいあなた。私のために、あなたは天使になって、戻ってきてくれたのね。
大好きよ。