死ぬ日
 暑くて暑くて、もういい加減地球は壊れてるんじゃないかと思うような夏の、日の、合間にあった曇りのだから涼しくて重苦しい日。
 いつもは暑くてやる気が出ないと部屋でごろごろしてばかりいる彼らも、その日は違って、憂鬱だからと動かずにいた。




「ゆーうー」
 そうやって彼を呼ぶのが彼女の癖。痩せた体、細い腕に、短い背丈。すべてがこぢんまりとまとまっているのは、彼女の拒食症にも近い食物摂取嫌いのためだ。
「なに?」
「まだご飯食べなくていいの?」
 ベッドに寝転がったままの彼女は、今朝から一度も起きだしていない。
「そうだな。そろそろ食べた方が良いけど――」
 言葉を切って彼女をちらと盗み見たら、いかにも不安そうな顔をしていた。
「まだいいよ。もう少ししたら食べよう」
 彼女は食というものをとことん嫌っているし苦手でもあるが、同時に絶対不可欠なものだということは人一倍に理解している。だからこうして彼に聞く。自分で食べたいと思うことはない分、彼が必要だから食べろと言えば、大人しく食べることにしている。
 彼女ひとりでは、きっと何も食べないまま、時間は延々と過ぎていく。
 そんな彼女だから、自分から食事の話を持ち出すのはまだ食べなくてもいいだろうか食べろと言われたらどうしようかという、怖いもの見たさ。
 自分が栄養士希望で良かったと、ゆうはつくづく思う。最低限の食事で最低限の栄養を摂取する方法を、どうにか彼は知っている。
「水飲む? タカ」
 彼女に声をかけると、いつものように氷は入れないでと返事がくる。彼女はどうやら、食べ物も飲み物を、食道を通る感触が嫌いらしい。冷たいもの熱いもの、刺激が特に強い両方を極端に嫌って、夏のさなかでもぬるいものばかり食べて飲む。
 名前を呼ぶたび思う。なぜ男の自分がゆうなんて可愛い名前で呼ばれて、彼女はタカという格好いい名前をもっているのだろう。ゆうやとタカコ。
「ありがと」
 寝転がったままの彼女の前にグラスを差し出すと、上目遣いで礼を言う。前はいちいち注意しなければならなかったけれど、最近では何も言わなくてもきちんと起き上がって飲むようになった、ベッドの上から離れようとはしないけれど。
 ゆうの飲む水に浮かぶ、氷がからりと鳴った。
「ゆーうー」
「なに?」
 わざわざ名前を呼ばなくてもいいんだけどなあ、と思いながら。このやりとりはもう何百回目だろう。名前を呼ばれてなに? と答える。
「同じ1月1日ならさ」
「うん」
「生まれたい? 死にたい?」
「は?」
 それはどういう意味だと思案を巡らせる。それは?
「えっとね。キリのいい日に生まれたい? それよりキリのいい日に死ぬのがいい?」
「……たぶん、キリがよくても悪くても死ぬのはヤだけど」
 ドラマや小説だったら、だってタカに会えなくなるじゃないか、とか続けるのかなとゆうは思った。生憎、ゆうとタカはそういった依存性のある関係ではない。
「えー、でも、どっちかって言ったらさ。どっち?」
 聞かれても、いまいちピンと来ない。どちらも意味があることとは思えず。
 大体こういう二者択一は、本当のところ心はどちらかに傾いている場合が多くてどちらかといえば? という質問になら答えられるものなのだ。しかしこの時のゆうには全くもってどちらにも魅力を感じられずに答えに窮した。
 キリのいい日に生か死か。
「……あ、あれだ。タカ、答えずれるかもしれないけど」
 どちらも選べない選択肢は捨てて、あたらしく考え出した。
「生まれるのも死ぬのも別にキリのいい日じゃなくていいからさ、同じ日に生まれて死にたい」
「――生まれてその日にすぐ死ぬの?」
 怪訝そうな顔は、それじゃあもう実現できないじゃないと言っていた。タカにとって願望というのは叶えるためだけにあるもので、例えば誰かのためにそれを我慢したりするという概念はない。それはただの我侭じゃないかと言えばもちろんそうだし、ゆうもそういった常識は持ち合わせているが、タカと一緒に居て喋っていると、そういう単純なことでいいのかもしれないと思う。
 やりたいならやればいいじゃないか、と。
「いや、そうじゃなくてさ」
 何となく、わざと抽象的な言い方をしてみてしまったけれど、結局めんどうになっただけだったな、とゆうは思った。
「俺の誕生日は九月二十六日だから、何年後かの九月二十六日に死にたい」
「誕生日が命日になるの?」
「ああ、そうそう。そういうこと」
 タカは俯いてあごに手をやり、ゆうの言い分について考え出した。これはタカの何かを考えるときのクセで、何かのマンガかドラマからの影響だったように思う。その虚構世界の中でこの仕草をしていたのは男だったが。
 始まりが終わり……と、ぽそりと呟いたのが聞こえた。
 あまりに真剣に考え込んでいるタカに、何かとてつもなく重要な選考をされているような気分になってきた。心臓がどくどくと鳴っている気がする。
「ふーん…………」
「――なに?」
 これは自分の口癖なのだろうな、とゆうは思った。
「んー、ゆうってやっぱり面白いこと考えるね。思いつかなかったよ。誕生日が命日っていいね」
 真面目な顔をしてタカが言った。
「……そう?」
「なによ、ゆうが言い出したんじゃない」
 気の抜けた声をだしたら、あからさまにむしろ多分意識して、呆れた顔をされた。
「なんとなくで言っただけだったから」
「なんとなくだから本当の自分のキモチじゃないの?」
 あっけらかんと、こんな真理のような偽物のような言葉を吐けてしまう、やはりタカの方が面白い。
「でも、きっと無理だろうな。誕生日が命日って、三百六十五分の一? の確立でしょ」
「もしかしたら三百六十六分の一かも」
「ん? ああ、うるう年ね。確かに。やっぱり難しいよ」
 もしかしたらを心から信じるには、少し辛すぎる数字だ。
「じゃあさ、その日に合わせて死ねるようにしたらいいんじゃない? 事故とか」
 ベッドの上から身を乗り出して、タカはいかにも良い考えだとばかりに笑っている。
「……こんなことのために自殺するの? やだよ馬鹿らしい」
「あ、そっか自殺になっちゃうのかそれは嫌だね」
 この辺りの単純さが、タカがタカたる所以でありゆうがタカから離れようと思わない理由の一つでもある。一つことを考え出すと、愚直なまでに他が頭に浮かばなくなる。
「ねえ、じゃあさ。私の誕生日になったらゆうがいきなり凶暴化して私を殺しちゃうっていうのはどう? そしたら自殺じゃなくて事故だし」
 事故の前に殺人事件だよ、と返そうとして、少し話に乗ってみようかと思った。
「それじゃあ、俺はどうやって自分の誕生日に死ぬんだよ」
「ゆうは自殺すればいいじゃない。拘置所とかで首くくるの。ドラマみたくさ」
「何で俺は自殺なんだよ、それなら二人で一緒に自殺すればいいじゃないか」
「ぶーっ。二人で自殺したんじゃ、自殺じゃなくて心中ですー。」
「それでも一緒だろ。自分の誕生日に死ねればいいんだったら。俺ら誕生日一緒じゃん」
「……そっか。そっか、そうだね。」
 いきなり納得されて、ゆうには返す言葉が浮かばない。
「でも、やっぱり嫌」
 軽く俯いていた顔を、タカは上げた。
「心中って自殺だよ、やっぱり。自殺はいやだから、ゆうが私を殺してよ。それで、そのあとゆうは自殺するの」
 何だよその我がままは、とゆう毒吐こうとしたけれど、ふとその言葉を押しとどめた。
「……しょうがねえな。俺が被害者になってやるよ」
 偉そうに芝居がかった声と仕草で、言ってやった。それに、タカが吹き出す。
「殺す方が被害者なのーっ? 可笑しいよ、それっ」
 何だか判らないくらいに笑うタカに、ゆうは憮然としながら、優しい気分にもなっていた。

 前に、一度だけ聞いた。タカの母親は、タカがまだお腹の中にいるとき、自殺しようとしたのだという。
 どんな方法での自殺かは知らないが、夫の発見が早く、母子ともに助かったのだと。
 助けられた母はぽつりと言った。子を産む重圧があまりに大きかったと。
 それはあくまでも子というものに対しての感情であり、タカ個人への想いとは何の関係もない。
 しかしそれでもやはり、それを知って以来のタカは自殺を極度に嫌っている。そんなタカのためなら、自分が殺してやってもいいかなと、本当に軽く、ゆうは思ったのだ。

 けれどその後、わざわざ心中まがいの事件を起こすことなく、今もふたりは生きている。