始めは一匹の猫だった。俺が拾ったそれを、それはそれは嬉しそうに飼っていた。あれがまだ幼かったころ、何度も読んでくれと俺にせがんだ、絵本の中の黒猫とそっくりだった。左耳の先にある小さく白い紋や、少し引きずる右後ろ足。
絵本の中の猫と違って、あれの飼う猫の生きた時間は短かった。俺が拾ったのが3月19日。墓穴を掘ってやったのが、その四ヶ月後だった。寿命でなく、猫にはありがちな交通事故だった。
その時のあれの状態を何というのか、俺はしらない。
俺の腕から猫の死骸をひったくって、一晩一緒に眠っていた。泣きそうな顔と目をしたまま、あれは涙を見せなかった。泣けない自分にあれは絶望していた。猫の死よりもそちらに気をとられていたように見えたのは、そうして悲しみをやり過ごそうとしていたのか、純粋に猫よりも自分の方がかわいかったのか。
翌朝、あれは猫のくたくたにぼろくなった死骸を俺に押し付けて、「埋めて」と言った。
「また何か拾ってきてやろうか」
あれは「いらない」と答えた。猫を物のように扱う俺を、さんざん非難していたあれが、物に対する言葉で言った。
あれは臆病で、自己中心的な人間だった。自分以外の誰のことも、気遣うことはなかった。
その猫の死は、俺が思ったより何倍もの影響をあれに及ぼした。生き物は死ぬのだという認識を初めてあれに植えつけた。あれは、まわりのあらゆる生き物が死ぬのを嫌った。それはだんだんとエスカレートして、自分の知る全てのものが変わりゆくことを恐れだした。
終わりというもの、変化というものに、極端に恐怖した。
一番の趣味だった読書を、あれはやめた。何冊も出ていたシリーズものの恋愛小説の、最終巻を読んだ直後だった。ハッピーエンドだったそれに、あれは空しさでいっぱいの顔をしていた。
猫の死で何が一番自分も悲しませるのか気づいたあれは、小説をやめたのを筆頭に、周りとの接触を断ち出した。自分が見て聞いて触れている全てのものが、自分を傷つけるものになりえるのだと、認識したからだった。
あれは臆病で、自己中心的で、何もかもに変化と最後を見てそれを勝手に恐れた。そして同時にとんでもなく高いプライドを抱えていた。人に弱味をみせず、脆い自分を認めようとしなかった。
あれは、確かに周囲と自分を隔絶していた。ただ、表面上は何の変化もなかった。人に優しく笑いを絶やさず時に儚げでちらちらと弱さがありそれを隠そうという努力も見せた。他人から見れば努力の後ろに弱さがある図だった、三次元の世界だった。けれど本当は努力も弱さも同じ場所にある、あれが作り上げ見せていたのっぺりとしたただの絵で、二次元だった。俺にはちゃんと見えていた。
自分を守るためだけに、あれは内へ内へと逃げ込んだ。
あれはそうやって努力を続けていたが、到底外からの刺激は人ひとりの精神で切り離せるものではなかった。隣の家が取り壊され、好きだった CM が放送されなくなって、あれは中学から高校へと上がった。淡々と進んでいく時間を、あれは、常人ならば何をそんなにと馬鹿にしたくなるほど恐れていた。無情とか機械的とか、そんな言葉も時間の流れを表すには生ぬるい。およそ人間の作った言葉で、あれにとっての時の冷たさを表現できるものは存在しない。作った人間の温かみが出る創造物に、時間の冷淡さは表せない。
あれが高校一年のときの、秋なのか冬なのか曖昧な季節。父親が死んだ。同時に母親も死んだ。二人で行った結婚二十周年旅行の帰りの飛行機事故だった。そしてそれから数ヶ月後に、あれのクラスメイトがひとり死んだ。詳しくは知らないが、何の予兆もなく、学校に行ったら朝の HR で担任教師から聞かされたと、言っていた。クラスのほとんどの人間が葬儀に出席し、あれは代表で別れの言葉を言った。担任に乞われ、数人の友人からも推薦された。あれは、正確にはあれのつくりあげた体面上のあれは、そういうものを断らない。神妙な顔をして、はい、と頷いたのだろう。
おかしかったのはその葬儀のあと数日間。高校すらも休んで、居間でぼうっとしていた。いつもは見ないドラマを見ていた。最終回がいやだと、ずっと前から見るのを拒んでいた。
俺が食卓に夕飯を並べていると、「お兄ちゃん」と声をかけてきた。振り返ると、努めて平気そうな顔をして、「明日は学校に行くから」と言った。二次元ではなかった。空虚感と恐怖を隠しきれていないのが、ありのままのあれだった。
「逃げてても、いいんだからな」
俺が言うと、「うん」と笑った。俺にならいつ逃げてきてもいいから。その言葉は言わなかった。この世界で、あれには俺しかいなかった。そんなことをわざわざ言うまでもなく、もとからあいつが逃げて来れる場所は俺だけだった。
俺は父親と母親が死んでから、大学をやめてバイトを掛け持ちしていた。同時に正式な勤め先も探していた。あれを見送ってから家を出て、帰ってくるのはいつもあれより遅かった。
鞄から鍵をだしてロックをはずし、暗い廊下を明かりもつけずに歩いてリビングに出た。そこには誰もいないのに蛍光灯が光っていて、俺は顔をしかめた。両親の遺産を少しずつ食い潰している我が家で、無駄遣いは禁物なのだから。
テーブルの上に1通の手紙があった。「お兄ちゃんへ」という、あれの女らしく流麗な字面。いつでも喋ればすむ距離にいる俺たちは、互いの書く文字を見る機会がなかったのだなと、その時思った。封筒は薄い桜色。中には一枚の便箋。
お兄ちゃんへ
私は、もうお兄ちゃんは知ってるけど、周りのものが変わってくのがこわいです。どうしようもなくこわくって、泣きたくって、でも泣けないし、泣いても何も変わらないのは知ってしまっています。きっと普通なら慣れてしまえることなんだと思います。
でも私は、どうやっても慣れることはできないと思います。誰かが死ぬのがこわいです。ほんの少しのことでもなにかが変わるのがこわいです。時間を止められたらって、何度も思いました。昔のことを忘れていってしまうのもこわいです。大切だったのに覚えてなくて、思い出せなくて。私が小さかったころ、お兄ちゃんが拾ってきてくれた黒猫の、白いぶちは右と左、どっちの耳にあったのか、もう分かりません。あの黒猫に似た猫が出てきた絵本の題名も思い出せません。これから先、もっとたくさんの人が死ぬのを見て、たくさんなにかが変わっていくのを見ていくんだと思うと、終わりを幾つも見るんだと思うと、こわくて仕方がありません。だって、お兄ちゃんが死んじゃったら、私はどうしたらいいんだろ。
私は、たくさんの人が死んでくのを見てくのがいやです。怖くて、そんなのは、絶対もう見たくない。だから、ずるいってわかってるけど、ごめんなさい。
人が死んでくのを見てくなら、私が見てくくらいなら、私が先に死にます。
ごめんなさい、でも私は、誰かが死んでくのをずっと見てるなんて耐えられません。ごめんなさい、私は死にます。そうしたら、先の苦しいことは全部ないから。
まやか
さっきから聞こえていた。気に留めてはいなかった。シャワーの音が続いている。まやかは、シャワーをこんなに長い間出しっぱなしにしない。バスタブにゆっくりとつかる。
リビングから風呂場に歩いて、扉をあけて脱衣所に入る。曇ったガラス戸越し、浴室に3回ノックする。返事は聞こえないまま、取っ手をひいた。もうもうとした湯気が一気に流れてきて、目を閉じた。見なければならない現実から避けるためだけの行為だと、脳はちゃんと認識していた。
閉じた目に手を被せてから、開いた。そうして、手を下ろした。
目の前には、赤い赤いまやかがいる。手首から、血が溢れている。
まやかは弱く臆病で、自分を傷つけえる全てのものを恐れ、それから逃げ出し、逝った。俺はまやかの逃げ場にはなりえなかった。なれるわけがなかった。俺もまた、まやかが恐れていた、変わり行くものだった。時間の流れの中にいるものだった。まやかが逃げ場として思いつけたのは、唯一、不変を与えてくれる終りだけだった。