存在価値
 彼はときどき、私には意味の取れないことを言う。

 三日前に会った女友達に、けじめは早めにつけたほうがいいよ、と言われた。
 いつまでも続けるような関係じゃないでしょう?
 彼女は決して堅苦しいタイプの女性ではなかったけれど、だからこそそんな忠告をしたのかもしれなかった。いつまでも続ける関係ではない。あるいは、続く関係ではない。言われて、頭ではちっともうまく理解できなかったけれど、そうなのかもしれない、という感触を漠然と持ってしまった。しかし、流れるように消えていくはずの関係は、気づけば一年を越えている。
 彼はいつも変わらず、ふらりと私の住む小さなアパートの一室へ来ては、自分のノートパソコンでインターネットを漂流し、私の作る簡単な夕食を食べ、シャワーを浴び、私を抱いてから、短い眠りに落ちて電車の通勤ラッシュが始まる前に帰っていく。
 恋人だと思ったことはない。私はそんなものを必要としていないし、彼はそもそも人を欲していない。きっと、一宿一飯の礼のつもりで私に触れるのだろうと思う。礼が欲しいとは思わないけれど、彼の体温と匂いが好きな私に、わざわざ断る理由もない。たまの人肌は、単純に心地いい。

 だから、その日に起こったのはとても珍しいことだった。隣に人がいながらの眠りなのに、安らかな夢が続かないだなんて。

 ひくっと、自分の体が一瞬の身震いを起こし、それで目が覚めた。あるいは、覚醒したからこそ体を動かすことが叶ったのかもしれない。なんにしろ、息がつまっていた。体内をめぐる、空気の通る道が、ひどく細くなっている。四秒の間を置いて、私は見開いていた目から力を抜いて、同時に息を吐き出した。やはり細く、だからこそ精一杯長く。
 背中が凍りついていた。ぞっとする、その感触がいつまでもべったりと張り付いている。とてもはがれそうにない。目の覚めた瞬間に忘れてしまうような夢に体が支配されているのは気持ちが悪かったけれど、それに抵抗する気力も削がれている。
 視線を、慎重に隣にやった。男が眠っている。それだけの事実に、ほんの少し救われる。
 口の中がからからに乾いていることに、舌を動かしてみてようやく気がついた。情けないくらいの状態に苦笑しようとして、失敗する。ため息をひとつ。少しずつ、体を現実にならしていく。ことさらに、自分が何をしているのかを意識しながら、布団を抜け出た。立つ。歩く。冷蔵庫の扉に手をかける。
 ぱこん、と気の抜けた音をたてて、白いあかりが漏れた。半分も埋まっていない冷蔵庫の中の、ボトルストックを眺める。手に取ったのはオレンジジュース。水や烏龍茶の軽さでは、この気色の悪さはぬぐえない。甘ったるくて、のどにいつまでも残るようなものでないと。体中に張り付いた不快感を一掃して、代わりに体に留まっていてくれないと。
 ペットボトルに直接口をつけたところで、何、と声が聞こえた。振り返ると、冷蔵庫からのあかりが男の首筋のあたりまで届いていた。体を起こしかけ、ひじで支えている。寝ぼけた彼を、初めて見たかもしれない。
 「ごめん。起こしたね」
 私は急いで大きく一口、オレンジジュースを飲み込んで、冷蔵庫を閉じた。部屋は真っ暗に近くなる。背中に、また悪寒が浮かんだ。そうそう簡単に消えてはくれないらしい。
 いいよ、と彼は言った。言いながら、ぱたん、と軽い音をたてて頭を枕の上に落とした。
 私は、かすかな彼の輪郭を目印にして布団に戻る。天井をまっすぐに見つめて体を横たえた。いつもは膝を抱えるようにして眠るけれど、今は背中を留守にすることが怖かった。一体どんな夢を見たのかと、自分を疑いたくなるくらいに寒気が消えない。
「あのね、みぃ」
 半分眠りの世界にいるような声で、彼が私を呼んだ。彼は私にみぃという名前をつけた。本名を呼ばれた記憶は、もうずいぶん遠い。
「うん?」
「俺はね、みぃを支えたりするのはできないし、上を目指すための足がかりになってやることもできないんだ」
 顔だけを彼に向けて、まただ、と私は思う。また彼は、私の知らない彼だけの世界にいて、そこの言葉を、私にもわかるようにむりやり翻訳して伝えようとしている。
「俺にできることはね、みぃと傷のなめあいをすることだけなんだよ」
 きっとそんなことは、不可能なのに。彼の世界を誰かに伝えることなんて、たぶん神様にだってできないことなのに。
「でも、心配しないでね」
 それでも彼は、言葉を途中で止めたりしない。
「俺は、みぃより先に治ったりしないからね。
 みぃは、絶対に、痛いときに一人になったりしないで済むよ」
 なぐさめではなく、私を追い詰めようとしているのかもしれないと、ふと思った。
「……うん」
 だとしても、なにも構うことはない。この、流れさり消えるはずの関係が失われることはないだろうから。
「うん」
 私の発したのと同じ言葉を返して、彼は眠った。
 明日の朝、彼がこの会話を覚えているとは思わない。それもまた、構う必要のあることではない。
 おやすみ。
 唇だけを動かして、私は言った。