畸形の指先
 彼女は畸形の指を持っていた。彼女の右手のひとさし指はつつましく縮こまり、隣りあう中指の第一関節にも届かない。彼女の意思で動かすことは叶わず、指として機能しなかった。
 彼女の右手は彼の知る限り、世界中でもっとも美しいものだった。しかし彼は自分がその右手を持つことを望みはしなかった。あの右手は彼女とともにあったからこそ、その美しさをこの世に現すことができていたのだ。それは彼にとってゆるぎない真実だった。
 彼は彼女を<貴女>と呼んだ。名前を口にするのはためらわれた。彼だけに許された彼女に対する呼び名があったが、そのことばで彼女を指すのは名前を口にする以上に許されないことのように思われた。どんな存在も持ちえない厳かさを彼女はその身にまとっていた。微笑む口元は完璧な曲線を描いた。
「不便ではない?」
 彼は幾度となく彼女におなじ問いかけをした。そのたびに彼女はほんの数秒自分の右の手を見つめてから、静かに首をふった。とうに四十路を迎えた彼女の目元にはかすかな皺がより、それは彼女の微笑みの穏やかさをいっそうひき立てた。
 事実として、彼女の九本の指はすばらしく器用に動いた。ものを書くにも、包丁を握るにも、不自然さはひとつも見当たらなかった。そうあるべきものがあるがままにそこにあり、醜さやゆがみはそこには存在しなかった。川に水が流れるように、彼女の右手もまたなめらかにその役目を果した。そしてその水のようななめらかさは、彼女がレース編みをするときにもっとも顕著に現れた。
 キッチンの椅子に腰掛けて真っ白いレースを編む。その彼女の姿を彼は正確に記憶している。
 椅子は木製で黒い塗料が塗られている。脚は三本で、彼女はそれに浅く腰掛ける。夏はじかに椅子に座るが、冬にはペールブルーのクッションを敷く。背中は少し曲がっていて、左手にレースを、右手に針を持つ。針はもちろん親指と中指で持っている。
 彼女は編み上げたレースを家のあらゆる場所に飾った。キッチン、リビング、寝室、玄関。そして彼の自室にも。木目の額と黒い布地にレースはよく映えた。均整ということばを聞くと、今でも彼の脳裏には家中に飾られていたレースのかたちが浮かんでくる。彼にとってそのことばは、彼女の編むレースをもっとも正しく表現するものだった。
 彼女の骨のかたちもまた、彼はよく覚えている。
 鋼鉄の台に寝かされた彼女の骨はあまりにささやかだった。それが目に触れた瞬間、彼は涙が浮かぶのを自覚した。あらがう間もないほど一瞬の反応だった。
 とっさに彼は彼女の右手を見た。それだけは、涙に視界がふさがれるまえ眼に焼きつけねばならなかった。彼女の畸形の指先は、変わり果てた彼女の中で唯一その面影を残していた。美しいと彼は思った。この世の何より美しい。こぼれ落ちたこの涙は悲しみではなく感動のためなのだと、彼はそう思い込むことを自分に許した。事実の捏造であれ、彼にとってそれ以外の真実は必要がなかった。
 今になって、彼が彼女のことを思いだす機会は減った。それでもふいに、記憶は彼の内で浮き上がる。
「じゃあ、不幸だと思ったことは?」
 不便ではないと首をふる彼女に、一度だけ重ねて尋ねたことがある。そのとき彼女は唐突に、つねにはない饒舌さを見せた。自分の両の手をひろげ見ながら、
「――お祝い事のときに、二とか六とか割り切れる数字は使わないでしょう。失礼なことだものね。もし私が右のひとさし指を持っていたら、五と五で割り切れてしまう。けれど、私の手には九本しか指がない。割り切れないの。これはとても美しいことだと、私は思っているわ」
 そう言った彼女の瞳にはたしかに苦しみがあった。そしてそれをがんとして受け入れないだけの強さも同居していた。幼かった彼はその複雑な色をたしかに見た。彼女の右手は美しいのだと彼が信じるようになったのは、その会話を交わしてからのことだ。それは彼女と、彼自身のためだった。
 前ぶれなく訪れる母への懐古の思いを、彼は静かに受け止める。