雪の降りつづく世界があり、少女と少年はそこに雪砂漠という名前をつけた。少女と少年はふたりきりで、その雪だけの世界を歩いている。
少女のつける足跡は、十歩と残らない。その小さなくぼみに、さらさらと雪がつまっては消えてゆく。激しくはない降り雪よりも、肌に感じないほどかすかな風に乗った積もり雪が埋めてゆく方が多い。
少年の足跡はない。少年には左の脚がないので、少女の腕に抱えられて雪砂漠をゆく。五歳を数えるかどうかというほどの幼さのわりに端整な、その顔立ち。
「グローブっていったっけ。私たちをここへ連れてきたのは」
「そうだよ。よく覚えてるね、コーコ」
紅古の腕の中から、少年は答える。
「忘れるわけがないじゃないの。いきなりこんなところへ連れてきて、『スフィア』と同じくらい耳慣れない名前で」
紅古は雪砂漠へ前触れなく招かれた。黒い大地、茂る樹木、そして家族がある、十四まで育った世界から。
「連れてきて、と何度もコーコは言うけどね、グローブがグローブの意思でコーコを雪砂漠へよこしたわけじゃないんだよ」
スフィアは微笑んだ顔のまま紅古に指摘する。
「グローブは映すもの≠セから?」
「そうさ。コーコが雪砂漠にいるのはグローブの意思じゃなくて、グローブに願ったものの意思なんだよ。コーコは一度聞いたことを忘れないね」
忘れられるわけがない、と言おうとして、紅古は口を閉じた。同じことを二度くりかえすのはばかのようだ。
「一度聞けば忘れないんだから、一度くらいきちんと説明してくれてもいいと思うんだけど」
紅古が口にした皮肉げな言葉を、けれどスフィアは気にもとめない。ひょうひょうと、
「じゃあ、ちょっと歩くのを休んでおしゃべりでもしようか」
頓着しないその様子に、紅古はどうにもなじめない。この少年にはつかみどころというものがまるでないと、改めて思う。
その軽すぎる少年の体を、紅古は雪の上へそっとおろした。その横へ座り込むと、紅古の着ているワンピースのすそがふわりと広がる。紅古はワンピース一枚きりの、この雪の世界では一時間と生きられないような姿でいる。山吹の花でうっすらと染めたような暖かな色。赤味のある茶のながい髪がぱらぱらと肩から落ちる。
白と灰色の茫洋とした雪砂漠に、紅古だけが唯一の彩りだ。スフィアはその髪も肌も、シャツとズボンという簡単な服も、雪に似た色をしている。雪砂漠になじむためにいるような、あるいは雪砂漠に選ばれたような姿だ。
「コーコはなにを知りたいの?」
スフィアの言い方には含むところがなにもない。ただ思うことを発するだけのしゃべり方は、うそなどけっしてつかないように聞こえるけれど、同時に他言しないと決めたことは、気づくきっかけのひとつも与えず隠しおおせてしまいそうだ。降りつもる時間に覆わせて、いつか見えなくしてしまうだろう。
「ここはどこなの」
「雪砂漠じゃないか」
「それは私たちがつけた名前じゃないの。なんでこんな雪しかない世界があるのかって聞いてるのよ」
「この世界を求めたものがいて、グローブがそれを聞き届けたからだよ」
「なぜグローブにそんなことができるの。世界をつくるだなんて」
「映すもの≠セからね。願ったものの意思を映すのさ。そのために必要なことは、なんだってできる。願いを聞いてくれるものがないとみんな困るだろう?」
紅古は、だれかに願うという概念が薄い。必要ならば、自分でする。自分でできないことなら人に頼んで、それでもできないことは諦めて受け入れる。そうして生きるばかりだった。
「私は困ったりしなかったし、グローブなんてもの知りもしなかったわ」
スフィアの言うことに実感のわかない紅古は憮然として反論するけれど、スフィアはそれを一言で否定した。
「コーコはグローブを知っているよ」
「――知らないと言ってるじゃないの」
「知ってるってば。コーコの生まれた世界ができたとき、グローブも生まれたんだよ。それからずっと、グローブはぼくらと共にいる」
スフィアは笑んだ顔のまま、肩をすくめた。
「コーコがグローブになにかを願ったことがないのは本当かもしれないけどね。グローブが願いを聞いてくれるものだって、知る必要のないものは確かにいるから。知っていてもなにも願わないものもいる。グローブは願うもののためにいるだけで、願うことを万物に強いるわけじゃないからね」
紅古はスフィアの言うことを、自分なりに噛みくだいてみようとした。そして、できそうもないと放棄する。
「わからないわ」
理解できないことは無理に考えない。紅古はいつもそうしている。なにもかもを自分の枠組みに入れようとするのは理解でなく、曲解でしかないと信じている。
「ぼくは分かれとは言わないけどね。コーコの質問には、こうとしか答えようがないよ」
「そうなんでしょうね」
紅古はひとつため息をつく。
春のたそがれ時の散歩の途中、なんの気もなく踏み出したありきたりの一歩で、紅古は雪砂漠にいた。花咲く大樹と、花とおなじ色の雲が広がる暖かな夕刻の世界から、ただ雪の世界へ、どうして移ったのか。起こったことを理解できないまま、雪砂漠へ来た紅古の目の前には、少年が――スフィアが座っていた。左脚のない痛ましい姿のこどもは、けれどなににも頓着しなさそうなその笑顔で、紅古を迎えた。
それからどれだけの時間が過ぎたのか日の沈まない雪砂漠では判然としないけれど、長くはないその時間だけでも、スフィアが一度言ったことを言い換えたりしないことを紅古は了解していた。少年は間違いないことだけを口にのぼらせるから、紅古に理解させるためのたとえ話や象徴的な話をしたりはしない。
「私が雪砂漠に連れてこられたのも、それをグローブに願ったものがいたからなのかしらね」
「そうさ。コーコは理解が早いね」
スフィア以外にこんな言い方をされたら、ばかにされたように感じたろうな、と紅古は思う。けれど、スフィアが向けてくる言葉には、他意や言外の意味はまるでない。そうなると、腹を立てることこそ愚かもののすることのような気がしてくる。
「理解できているとは思えないけど。グローブというのがいて、それは願いを叶える存在で、だれかの願いのままに雪砂漠をつくって私をよこした。そう覚えてはおくわ。それ以上は私にはできそうもない」
視線を落としてもう一度ため息をつく紅古に、スフィアは明るく声をかける。
「せっかく覚えておくつもりなら、もうひとつ教えておこうか」
あんまり明朗なその口調に、紅古は顔をあげる。
「なにを?」
スフィアは、決して変わらない笑った顔のままだ。
「グローブは、もちろん願いを聞き届けるためにいるけどね、どんな願いも叶えるわけじゃないよ。その願いに巻き込まれる存在――雪砂漠のことで言えば、連れてこられた紅古のような存在が害されるような願いは叶えない。願うものも、その願いを叶えたために影響を受けるものも、等しくよいものを得られる願いしか叶えない」
だからね、とスフィアは続ける。
「紅古が雪砂漠に来たことには、必ずいい意味があるよ」
真摯な、というにはあっけらかんとしすぎた言いぐさ。それはどこまでもスフィアらしい、事実を言い立てているだけのことだった。
気遣っているのかもしれない、と思いながら紅古は笑った。そうだとしても、そうでないとしても、スフィアの言うことに嘘はないはずだ。
「なら、そのよいものに私が気づけることを期待するばかりね」
「だいじょうぶさ。気づけなくても、間違いなくコーコはそれを手にしてるはずだからね」
のんきなことを言うスフィアに、紅古はもう一度わらった。そして、ふと思いつく。
「じゃあ、スフィアが動いているのも、だれかがグローブに願ったからなのかしら」
スフィアはどう見ても、男の子の姿をした人形だ。そのスフィアが動いているのは、スフィアが意思と生命を持つようにと、願ったものがいたからなのだろうか。
それならこの奇妙な存在にも理由がつく、と紅古は思ったけれど、スフィアは「ちがうよ」と否定した。
「コーコは知らなかったかもしれないけどね、長い時間と、ひとの情と、精密な技術があれば、人形は動くようになるんだよ。なにしろ、ひとのかたちをしたものだからね」
「……そういうものなのかしら」
「じゃなかったら、ぼくがいる理由がないじゃないか」
人形が動く理由になっているのか、それで理屈が通っているのか、紅古にはとても判断できそうにない。
「じゃあ、そういうものなんだって、覚えておくわ」
あきらめた紅古は、言いながら立ち上がった。
「そろそろ歩こうか。ここにいても仕方ないしね」
留まるよりは動いている方がいいだろうというのは、十四歳までの短い時間で、紅古が育んできた考え方のひとつだ。
あっけないほど軽いスフィアの体を抱き上げて、紅古はまた雪砂漠を歩いてゆく。グローブに守られた彼女は、この雪の世界で寒さも疲れも感じることがない。だから、紅古とスフィアは、いつまででも雪砂漠を歩いてゆく。