針雨と白木の舟
「ハリアメね」
 右へ左へとかすかに揺れる舟の上で、少女がつぶやく。降りつづく雨がつくった地表をおおう水面、舟はその上をゆったりと進んでゆく。なめらかな質感の白木でつくられた、人が十人も乗れそうなその舟は、どこへ行くとも知れない。
「はりあめ、って?」
 寝そべるようにして舟の外を眺めている少女とは対照的に、足と背筋をまっすぐに伸ばしてきちんと座っている少年。オーバルは、少女を見つめながら問うた。少女は視線を動かすことなく、落ちてくる水滴をただ見つめたままでいる。それでも、少年の疑問には答えた。
「こういう、細くって、上から下にひたすら落ちていく雨をハリアメっていうのよ。まっすぐな針みたいにとがってて、触れたら痛そうな雨、って。――私のいた街ではね」
 少女と少年は、舟についた大きな屋根に守られて、その針雨に濡れることはない。風のないこの世界では、水滴が吹き込むこともない。
「ユマは雨の名前にくわしいんだね」
 柚摩、と呼ばれた少女は、ようやくオーバルに向きなおる。その、明るく深い茶の瞳。うなじがあらわなほど短い、白金色の髪。十七を数えるわりに華奢な体とあいまって、変声期前の少年のようにすら見える。膝上丈のズボンからのぞく足は、白く細い。
「くわしくなんかないわよ。街の人間ならだれだって知ってるわ」
「そうなの?」
「ええ」
 不機嫌に答える柚摩に、少年は興味深げな表情をした。
「ぼくが生まれたところじゃあ、そんな風雅なことを考えたり、知ってたりするのは、ごく一部の裕福な人々だけだったよ。――柚摩の街は、とても豊かなところなんだね」
「豊か……だったかしら。さびれてたとは、思わないけれど」
 柚摩の言うところの針雨≠ェ降り続くこの世界に、柚摩は彼女の意思で訪れたのではない。吹きすさぶ風と雨がやむのを洞の中で待ちながら、柚摩は眼をつむっていた。その風の音が消えたのに誘われて眼を開いたとき、降っていたのは風雨ではなく針雨で、眼前には八歳ほどに見える少年がいた。少年は「はじめまして、僕はオーバルといいます」と、妙に礼儀正しくあいさつを送ってきた。柚摩にはあまり見慣れない、黒髪と蒼い瞳という取り合わせの、やけに整った顔立ちで。
「住んでいる人がさびれていないと感じられるってことは、充分に裕福だってことさ」
 オーバルは知ったような顔をする。考えるよりも先に、柚摩は反駁していた。
「水のおかげで暮らせてるようなところだったのよ。だから、水にはたくさんの呼び名があったわ。それだけのことよ」
「水なんて、どこにでもあるじゃないか。それだけじゃあ、ひとつの街が暮らしてなんていけないだろう?」
 さも当たり前のように疑問をなげてくるオーバルに、柚摩は苛立ちを感じる。この世界に来てからの短い時間だけでも、彼の生まれた場所が柚摩の故郷とはずいぶんちがった価値観に基づいているらしいのは感じていた。だというのにオーバルが自分の基準をくずそうとしないのは、自分の知っている世界以外を想像できないという無邪気な無知から来るらしいこともわかっている。それが柚摩には腹立たしい。
「私のいた街の周りの村じゃ、飲み水を確保するのは大変なことだったわ。地形のせいなんでしょうね、雨はめったに降らないし、たまの雨はすぐに海に流れ込んでいく。私のいた街は海に面していて、海の向こうの国から海水を精製する技術をどうにか買い取って、水を周辺の村に売りながら暮らしてるのよ。街にとってだって、周りの村にとってだって、水は貴重品よ。名前をいくつも付けて、奉らずにはいられないわ」
 一息に言ってしまうと、柚摩はオーバルから視線をそらして、また針雨を見つめた。豊潤すぎるほどに水が落ちてくるのを眺めながら、やつあたりじみていたかもしれないと気づいてはいた。
 オーバルは視界の外だけれど、なにを返せばいいのかわからないまま呆然としているような気配は伝わってくる。それでも、彼は黙りつづけはしなかった。屋根と水面、それぞれを叩く水滴の音に隠れながらも、オーバルの声は柚摩に届いた。
「……ごめん」
 うつむいたオーバルのあまりの沈みこみように、柚摩は隣家の少年を思い出した。彼女よりも数ヶ月先に生まれ、なのに自分よりもずっと幼く見えるその少年は、彼女が機嫌を損ねるたびに途方にくれていた。
「謝ることじゃない。あなたが私のいた場所のことを知らないのなんて当然だもの」
 明らかに責めるような口調でまくしたてておきながらなにを言っているのだろう、と自分に呆れそうになったが、それは表には出さなかった。こんなことで互いに謝りあうのもばからしい。
 それでもやわらかい声に聞こえるよう意識して、柚摩はオーバルに尋ねてみた。
「あなたがいたところじゃ、水に困るようなことはなかったの?」
 だらけさせていた体を起こして、オーバルに向き合った。重い空気を引きずるのが苦手なのだろうオーバルは、その質問に答えようと素直に顔を上げてきた。
「たぶん、意識したこともなかったと思うよ。困ってたっていうなら、木材を手に入れる方がよほど難しいことだったんじゃないかな。ぼくをつくるのにだって、一番苦労したのは材料を手に入れることかもしれない」
「へぇ……。木材なら、海の向こうからいくらでも運び込まれてたわ。建物はすべて木でつくってたし――」
 そこまで言ってから、ふと気づく。
「あなた、木でできてるの?」
 オーバルが人ではなく人形だというのはこの世界に招かれた最初に教えられたが、なにを材料につくられたかなど、考えもしなかった。
「うん? そうだよ。ぼくをつくった人は木人形師だもの、ぼくだって当然木でつくられたさ」
 目の前の少年は、もとよりとても人形には見えないが、木などにはなおさら見えない。木目もつぎ目も見当たらない。
「こんなところにいて、湿気ちゃわないかしら」
 的外れなことを言ったつもりはなかったが、オーバルは眼を丸くして、それから軽くふきだした。
「ぼくは、そりゃつくられたときは木そのものだったけどさ、今はそういう――なんていうんだろうね――材質のしがらみとは、関係ないよ。人間で言えば、幽霊みたいなものだっていうのが、近いのかもしれないね」
 うまく飲み込めない柚摩に、オーバルは面白がるような表情を浮かべている。
「人形がこんな風に動いてるっていうのに、いまさらそんな心配をする方が不思議だと思うんだけどなぁ」
「だって、でも、木って水に弱いじゃない」
 からかわれているような気分で、柚摩は思わず顔をしかめてしまう。それでもオーバルは笑いをひっこめはしなかった。
「そりゃあ、木は水にも火にも弱いし、つくられたばっかりのころにこんな場所に放り込まれてたらとっくに傷んでただろうけどね。今はもう、木でつくられた形の上に、心っていう膜があるようなものだから、そうそう簡単にだめになったりしないよ」
 言ってから、オーバルは笑顔の種類を変えた。細められた瞳には、懐かしむような色が見える。
「人だって、心を持たない体は、ずいぶんもろいでしょ?」
 そのオーバルの表情に、こんなにも細やかに感情を表すのなら、確かに雨に湿気るという考えの方が奇妙なのかもしれないと、そう思えてくる。結局、オーバルの話はそのまま納得してしまうことにした。
 肩を軽くすくめてみせることで返事に代えて、柚摩は舟をおおう屋根を見あげた。舟本体と同じ、さらさらとした感触の白木でできた屋根は、ふとしたことで透けてしまいそうにすら見える。
「もしこの舟みたいな木で人形をつくったら、さぞかし触り心地の良い人形ができあがるんでしょうね」
 右手で舟底をなでながらつぶやいてみると、
「ぼくはこんな木より、よっぽど上等な木でつくられたよ」
 そんな答えが、誇らしげに返ってきた。