自然
 僕にとっては遥か昔、だけどまだ生きている僕のひいじいさまの記憶では新しい、23 年と 4 カ月前。“自然” と “自然ではないもの” の間に、明らかな一線がひかれた。
 始まりは、寒い秋の朝からだったらしい。朝の4時から動きだす人もいれば、日が昇りきった8時をすぎても起きない人もいた。人々は、ほんの少しだけ、ほんの微かな違和感だけを感じて、だけどそんなこと気にもしないで日常に生きて、そしてTVやラジオをつけた時に、その違和感が何であるかを知った。TVやラジオのニュースでやっていた内容はほぼ一つだった。
『――世界中の “自然” が止まりました――』
 僕が産まれたのは17年と6カ月前で、その時のことは知らないし、その時にどんな混乱が起こったのか、それとも皆、まあまあ冷静だったのか、まったく知らない。
 風が吹かず、波は止まり、川は流れず、空の雲は動かなかった。地下のマグマも止まり、陸の微かな移動なんかもその時に止まったらしい。
 そして世界中で動くものは、植物と動物と人間が利用する水だけになっていた。
 ああそう。人間が自然だと思っていた噴水や、水道からでてくる水は、決して止まりはしなかった。23年と4カ月たっても、人間が利用する水は止まらず、まるでそれらの水は、地球に自然物ではなく人工物だと見なされたようだった。
 その事象に対するある研究者の言葉を引用するのなら、
『今回のこの事態は、地球上の “自然” が、自然を己らの利益のためだけに利用した我らに対する抗議の行動だとうけとることができる。太陽の運動は止まっていないことから、事態は地球内でのことだと考えられる。ただし、月による潮の動きまでも止まっていることから、“月” が “協力” しているように見ることもできる』
そうだ。少数の人々は自然を動かそうとあがき、多数の人々は諦め、動かない自然のとなりに暮らしている。幸いなことに、水は通っているし、植物も活動を止めていない。『花』というものが、自然が止まる更に前に、人々によって失われ、そのせいで華やかさは昔に比べて損なわれたらしいけれど、それでも人は生きている。
 研究者ではなく、哲学者が言った。
『人々は、“花” がなくなっても生き、“自然” が止まっても生きている。果たしてこの世界に、失うことによって人類が生きられなくなるものなど、どれほどあるのだろう』