峡谷列車
 窓の外を見た。暗い黒の中に、遠く小さく町の光が見えた。
 列車の中を見る。彼以外に人はいない。
 もう一度外を見た。距離感すらもつかめない闇があった。
 自分の手首を見下ろした。かたく、荒縄で縛られている。
 そして車内正面のデジタル表示を見上げた。4:57 の数字。
(あと、五分か……)
 ゆったりと、正確に、それは彼の命の残り時間を指し示す。
 彼は、この列車に乗ってからの二時間、幾度となく思い浮かべたことをもう一度反芻した。
(現、サイリラン国支配者のウルハより四代前のカゼレイ。彼女の統治が始まったおよそ百六十年前から続く “峡谷列車”。死刑判決を下された人間に、自白を強要するために用意される、深さ八百メートルの大峡谷へと時速百キロで二百キロの直線を走るたった一輛の列車。この列車から逃れる術は、車内前部に置かれた無線で、町の保安隊に自白を承諾するのみ。列車が峡谷へ墜ちたことは一度。それも、無線がつながった数秒後に、誓約が間に合わずに墜ちた。無線を手に取りもしなかった者は、未だ皆無)
 淡々とそこまでを思考の中で喋り、彼は微かに苦笑した。
(その一人目が、この私――)
 彼に、自白する気は無い。
(そしてその私の罪は、弟を除く家族全員を殺したこと……)
 静かに目を閉じ、彼は微笑んだ。
(エイリアは……今、何をしているだろう)
 彼は、唯一生き残る弟のことを思った。
(これから先、ちゃんと暮らしていけるだろうか)
 弟に優しかった彼は、それが気がかりだった。しかし――
(しかし、あいつにはもう彼女がいる――)
 そう、家族全員が弟と結婚することに反対していた彼女が。
(二人でどこかへ行けとも言っておいた。もう、思い残すことはない……)
 それからふと、一人の男のことが彼の頭をよぎった。
(スフィラトは、このあとどうするだろう)
 今回の事件の全てを知る親友のこの後の行動を、彼は考えた。
(弟[エイリア]の世話をしてくれる、ということは――ないだろうな……)
 目を閉じたまま、彼は微笑を苦笑に変えた。
(スフィラトは、エイリアを良くは思っていなかったから――)
 けれど、今回のことを口外することもまたないはずだ。
(俺が願うのは、弟の幸せだけだよ――…………)
 目を開き、また外を見た。明りは見えなくなっていた。
 列車の中を見渡した。変わるわけもなく、彼の他に人はない。
 もう一度外の、今度はすこし前の方を見た。谷のはじまりが微かに見えた。
 自分の手首を眺める。手首を縛る荒縄と一緒に、足首を縛る同じ縄も見えた。
 最後に、天井の右の隅にあるカメラを見た。
 一番後ろの席に座らされ、自由のきかない手と足で、列車の最前部にとりつけられている無線
まで這ってでも辿り着こうとする死刑囚の滑稽な姿を観察するためのもの。
 その映像を見ているのは、悪を憎み、人々を守る保安隊に所属する男たち。
 無機質なカメラを見ながら、そのむこうの保安隊の隊員たちにむかって、彼は優しく、憐れみ
の目で微笑んだ。
「私が望むのは、エイリアの幸せだけ――」
 列車に乗ってから、はじめて彼が言葉を発した。
 そして胸中で思う。
(どうか幸せで、エイリアよ……)
(お前の罪をかぶって今死ぬ、私の分まで。そして――)
 彼はひどく穏やかに、満ちたりた顔で再び目を閉じ、微笑んだ。
(そして、願わくぱ二度と人など殺さぬように――――)

 男がモニターの中で微笑み、しばらくして爆音が響き、画像はノイズへと変わった。
「何だよ、今日はつまんなかったなー」
 モニターの映像をじっと見ていた男たちの一人が言った。
「あばれもあがきもしなくてさ、何の見ごたえもなかったぜ?」
 そばにいた別の男が、似たようなことを同じ表情で言った。
「せっかく、一番おもしろい最後のシーンを見れると思ったのによー」
「あーあ、これぐらいしか気晴らしがないってのにさ」
口々にぼやきながら、男たちはそれぞれの仕事へと戻っていった。そして彼らは、日々町の平
和のために働いている。

――兄の乗る列車が墜ちる時刻[とき]。
 エイリアは、人工の光があふれる明るい町を歩きながら、十時の鐘を聞いた。八時に町を出た “峡谷列車” が谷へ墜ちる時刻。涙など滲まない。それが辛く、悲しかった。
 兄の、最後に言った言葉を思い出す。
『もう、誰も、殺すな』
保安隊本部に自首する直前に言った、兄の言葉。
「そんなこと、言ったって……」
 兄と別れてから歩き続けた足がふらつき、エイリアは汚れた石塀にもたれた。
「兄貴が “峡谷列車” で死んだら、俺が殺したも同然だろ……――」
 人を殺した恐怖が、今さらのように襲い来る。
 二度と、彼女の所へは戻れない気がした。