猫の話
 その夏、私は兄と二人で祖母と祖父の住む町へと行った。兄はその当時高二で、私は中一だった。たった四歳の差でも、兄は私の手をしっかりとにぎって私を引っ張っていった。それが強がりであり、兄自身も初めての場所に対する不安はあるのだろうと思った。そのことが分かる程度には私も大人だったし、その兄を支えられない、力ない子供でしかなかった。
 いつもは母と父と、十九で免許をとった長女の変わるがわるの運転で行く祖母の家に、私たちはバスと電車とタクシーで向かった。数時間をかけて昼過ぎに着いた私たちを、祖母は大手を振って出迎え、祖父は厳格な顔のなかにも、喜びをたたえていたように思う。その日、私は祖母と夕食をつくり、兄はテレビを見ながら、祖父と思い出したように、一言ふたこと、言葉をかわしていた。
 到着したそのその日の夜は、ゆっくりと風呂につかってぐっすりと眠った。私と兄にはおなじ部屋があてがわれた。
 翌日、私と兄は家の裏手にある川へと向かった。湿った山道を数分くだった所に、幅が十メートルほどの川がある。上流で流れが速く、しかし浅瀬も多いので水遊びには最適の場所だ。私は薄いTシャツにホットパンツをはいて、兄も同じような格好だった。
 昼食をたべてすぐだったので、私たちはまず浅瀬をはだしで歩いていった。あつい日差しに照らされていても、流れる水は冷たかった。足の裏を、まるまった石が刺激する。時々すべりそうになりながら、私ははしゃいでいた。兄はさりげなく、しかし確実に、常に私を視界の中にいれていた。
 くじらに似た大岩に私はのぼった。身体中がぬれて、青いTシャツがはりついた。岩の上で寝ころがり、身体が乾きかけた頃、私は身をおこした。のぼったのと反対側を見下ろすと、水が流れないようになっていた。くじら岩が、流れてくる水をせきとめていた。私はただ何となく、そこに下りてみた。動かない水は少しよどんでいる気もしたけれど、私はあまりそういうことに頓着しない。私の姿がないことに気がついたんだろう、兄が私の名を呼んだ。私は、「ここにいる!」と叫んだ。くじら岩をまわって、兄が顔をのぞかせた。
 その水たまりは深くて、私の腰まであった。三メートル四方ぐらいのその中を、私はゆっくり歩いた。左側は岩が積み重なって、水面から一メートル以上は飛び出ていた。私はそこに近寄って、コケのはえた岩に触れた。ぼんやりとくじら岩の陰に入っていると、兄が「何やってんの?」と言ってきた。私は何も答えなかった。
 突然、水に浮かぶ黒いものが岩の陰にちらりと見えた。揺れる水に乗って見え隠れした。私は何気なくその黒い物体に近寄った。ビニール袋か何かだろうと思った。違った。仔猫だった。死んでいるように見えた。
 私は、その仔猫を胸元に抱えあげた。普通の女の子なら、きっと触ることさえ嫌がるだろうと思った。こんな風に変わっているから、私は苛められたりするんだろう。
 片手に仔猫を持って、私はくじら岩にのぼった。兄も不審げな目をしながら、のぼってきた。私が岩の上に横たえた仔猫の死体を見て、兄は「おまえ、」とだけ言った。驚いて、目を見開いていた。
 仔猫の身体を、私はぬれた手でぬぐった。やせ細ったその猫は、額だけが、すこし白かった。
 岩で手の水気をとっては、その手で猫をふいた。猫を、岩の乾いている場所に何度も置き直して、猫がきちんと乾くまでそれを続けた。何度も岩にこすりつけた手のひらは、少し赤くなっていた。猫が乾くころには私も乾いていたから、その猫をもう一度抱きあげた。
「知ってる猫なのか」
 問いかける兄に、私は首を振って「知らない」と答えた。
 押し黙る兄を私は放っておいて、猫をぬらしてしまわないようにくじら岩を下りた。そして川に入ったときに脱ぎ捨てたビーチサンダルのある所まで戻った。ついてくる兄に振り返って、「帰ろう」と言った。
 ただの「日差し」が、そろそろ「夕日」にかわる時刻だった。山の落日は早い。
 兄は無言で私の前を歩き出した。片手のふさがっている私に、兄はときどき手を貸した。
 落ち葉の敷きつめられた山道をのぼりきって、私たちは祖母と祖父の家の裏手にでた。私は大きなシャベルを納屋からそっと持ち出してきた。そして目立たない場所に穴を掘ろうとして、片手でどうやって掘ろうかと思案した。兄が、「俺がやる」と言って、私からシャベルを奪い取った。直径三十センチメートル程度の楕円を、二十センチメートルくらいの深さまで掘って、兄は手を止めた。あたりは暗くなりはじめていた。
 私は兄に代わってその穴の前に立ち、仔猫の小さな身体をそっと置いた。その毛並みは、ぬれそぼっているときよりは幾分ましだったけれど、それでも荒れていた。それから私はホットパンツのポケットから小さな緑色の石を取り出した。ふぞろいになめらかにカットされたその石は、私が小五だったときに家族で見に行った美術展の出口にあった売店で母に買ってもらったものだった。百円の小さな石は、そのときからいつも持ち歩いてた、わたしの宝物だった。それを猫の上に置くと、「いいのか」と訊かれた。
「いいよ」
 答えて、私はひざに手をつきながら立ち上がって一歩退いた。兄がもう一度穴の前に立って穴をふさいだ。ほるよりもはやかった。塚のようにしようとする兄に、私は「平らでいい」と止めた。一度私の方を向いてから、兄はシャベルを墓の横に差した。そしてイビツな三角錐の形の、ごつごつとした岩を持ってきて、墓の上におた置いた。そしてシャベルを抜き取って、家の玄関に向かった。私も兄にならって家へ入った。わたしも兄も、手を合わせることはしなかった。
「ただいま」
 笑顔で、川遊びを心から楽しんできた顔をして、猫と会ってから埋めるまでの時間を消して、私は広い玄関から声をあげた。居間から祖母が顔を出し、「遅かったわね。すぐ着替えなさい」ほころんだ顔で言った。当然のように、私も兄も、仔猫の話などしなかった。

 その数年後、祖父が他界し、祖母はそれを機に私の叔父にあたる人達の家す住みはじめた。二人の住んでいた家は取り壊され、空地になった。祖父の葬式の日以来、私はその町を訪れる機会に恵まれず、墓参りもそのとき一度したきりになっている。もうきっと二度と、あの場所に行くことはないだろう。