つよくなれないやさしいひと
 失いたくないものを手に入れずにいられるつよさを、世界はやさしさって呼ぶらしい。


 じゃあ俺は残酷にやさしい男なのかな。あいつの嫌いそうな言葉遊びでもって、俺はこの事態から頭を遠ざけようとした。無駄なことだとはわかっていたけれど。目の前に大好物のハルの顔があるのにそれから意識を外すなんて器用なこと、俺にはできない。そのハルの顔が、真剣な怒りをたたえていたとしても。
 いやがるかもしれないとも、驚くかもしれないとも予想していたけれど、ここまで怒られるとは思っていなかった。おかげで、ほうけたまま愚かなことをしてしまう。俺は、ハルをこんなにも怒らせた言葉を、もう一度言った。

「だめかな。絶対に、痛くしないから、させて」

 ハルの般若顔がますます深くなる。
 男の一人暮らしの部屋にはあまりにも不似合いな真っ赤なソファは、ハルの元彼女のセレクトだ。別れてから、多分ちょうど二時間くらい。十九ヶ月を電話越しで終わらせるなんて、ずいぶん卑怯だと俺は思う。二人が付き合いだしたとき必死で笑い続けた俺を馬鹿にするには充分すぎるくらい、卑怯だと思う。
「それはあれか。俺が由可にふられたことにあてこすってんのか」
 腹の底から出された本気の声で言われて、俺はびっくりした。そもそも真剣に取り合ってもらうこと自体が難しいのだと、俺はようやく気がつかされる。
「……ちがうよ」
 声を出してみてわかったけれど、たった数十秒の短い時間で、俺の喉は笑ってしまいそうなくらい乾ききっていた。おかげで、かすれきった小声しか出てこない。ほんとうに、ばかばかしい。
「じゃあなんだってんだ」
 剣呑としたハルの声に、俺はそれでもむりやり希望を結び付けて、すがろうとする。勘違いしているなら、その誤解をとけば理解に変わるんじゃないか、なんて。
「ハルが好きなんだよ。ずっと、由可ちゃんと付き合う前からだよ。ねえ、由可ちゃんのものでなくなったんなら、俺のものになってよ」
 めちゃくちゃを言ってるな、と頭の中で俺が言う。彼女の彼氏という立場から降りたって、ハルはハルのものなのに。
 ――でも、と、さっき細すぎる希望にすがろうとした俺は、また必死で反駁する。でも、だれのものでもないままでハルを放っておいたら、また、だれかの彼氏になるんだろう。俺が、あんな痛みに二度も耐えられるなんて思えない。自分のものじゃないけど、だれかのものでもないなんて中途半端に耐えられるほど、俺はつよくない。確かに俺のものだと、言ってしまいたい。
 ばかばかしいエゴイズムだと、俺はまた俺に笑われた。
 分裂していく自分を抑えようとしている間に、ハルの表情は変わっていた。怒りから、困惑と混乱。ああ、ようやく、俺が予期していた顔だ。
「ハルが欲しいよ。ずっと欲しかった。抱かせてよ。俺にハルをちょうだい」
 あんまり幼稚なねだり方にあきれ返りながら、それでも俺はそれ以外の言葉を持たない。
「――厭?」
 良い? と聞けない俺は、ようするに根性無しなのかもしれない。
 ハルは、戸惑いから抜け出そうとしていた。別れ道を前にして、行くべき方向を見つけたみたいに。その顔は、どんどん、冷静になっていく。俺から、離れていく顔だ。あんまり素直な思考回路の発露に、俺は泣きそうな顔をしたかもしれない。

「いやだ」

 ハルは一度視線を落としてから、まっすぐに俺を見た。こんな俺から目を逸らさずにいてくれることに、感謝しなくちゃいけないのかもしれない。
 ハルが、その目で俺を射抜きながら言おうとしていることを、俺はもう理解している。
 ――だっておまえは、友達じゃん。友達とそんなことになったら、気まずくなるだけじゃん。
 正しさで裁かれる、俺の残酷なやさしさ。それはきっと、この世界がよわさと呼ぶもの。