子猫に名前を
「シンさぁん、こいつの名前おれがつけていい? いい?」
 雪の色をした子猫のうしろ首を無造作につかみ上げた男に、彼は無言のまま近づいた。広い窓際の陽だまりに寝転んでいた男から、空気に触れるようにやわらかな仕草で子猫を取り上げて、男には背中にひとつ、無造作な蹴りをくれてやる。
 なにするんだよと騒ぐ男を放ったまま、眞汰は子猫の顔を覗き込んだ。きょとんとこちらを見つめる瞳は、逆光になって瞳孔が開いている。子供のころに従妹が遊んでいたビーダマを思い出させるその質感。窓外にたかく広がる空をそのまま移したような色合い。空色というのは正しい表現だと思う。毛並みの感触を楽しみながら、子猫というのは美しくて、とても甘ったるい生きものだと実感する。
 だらしなく寝そべっていた男が体を起こしたところで、眞汰はようやく視線を向けた。
「猫を乱雑に扱うな、おおばかもの。丁重に接しろと言ったろう」
 見下ろしながら言い捨てると、男は大仰にしかめ面をしてみせた。
「ばかはないでしょー。愛情込めて名前を決めようとしてたんじゃないの。なぁ、おれがつけていいでしょ?」
 眉間のしわは一秒も続かないで、男はもう笑っている。歳はたったひとつしか違わないはずなのに、この男はずいぶん幼稚な表情をすると思う。けれど、そんな風に平均から一ミリだけずれたようなはずれ者同士だからこそ、今こうして同じ空間にいるのかもしれない。
 外面上は、彼らはクラスメイトということになる。けれど、眞汰は高校へ行っていない。去年の秋から登校をやめて、結局留年して高校二年生という肩書きを続けている。この春に新たなクラスに転入した穗積が同じマンションに引っ越してきたのは、単純な偶然と呼ぶしかない。学校へ行かない眞汰はマンションのロビーで穗積に出会い、なにを思ったのかなつっこく声をかけてきた穗積は、それ以来眞汰の家へ入り浸っている。二階にある自宅より、五階の本條家の方が窓からの眺めがいいのだと適当な理由をつけて。
「真っ白だしさぁ、シロとかユキとか、短くて呼びやすくて、きれいな名前がいいよな」
 勝手に話を進めている穗積の横に、同じように足を投げ出して座り、眞汰は子猫をひざに乗せる。
「誰がおまえに名前を決めさせると言った?」
「えっ、だめなのっ?」
 また大げさな動きで穗積は驚く。あきれた顔をして見せながら、眞汰の細い指は子猫をなでている。
「そもそも、名前が決まってないなんて言ってないだろう」
「もう決まってんの!?」
「今さっき俺が決めた」
「なんだそれ、ずるい!」
 ぎゃあぎゃあとわめく穗積を、眞汰はいわくあり気な目つきで見つめた。つき合いは短くともその密度が濃い眞汰には、穗積の扱い方がわかっている。眞汰のその視線に気付いた途端、穗積はぴたりと口を閉ざした。
「……なんだよ」
 不機嫌ではあっても、声音には好奇心が覗いている。穗積自身から興味を引き出せれば、あとはもうどうとでもできる。自分の欲求に逆らわないというのは、穗積の美点のひとつに挙げていいだろう。
「せめて、俺が考えた名前を聞いてから騒がないか?」
「……なんだよ」
 おなじ言葉を、一度目よりは穏当な声で繰り返す。
「シホ」
 眞汰が短く答えると、穗積は少し考える顔をした。
「――まあ、呼びやすくてきれいな名前だな」
 だろう? とうなずいてから、
「由来を聞いたらもっと気に入る」
 だまって首をかしげる穗積に、眞汰は珍しくやわらかな笑顔を見せた。
「眞汰の『し』と穗積の『ほ』で、シホ。……いい名前だろう?」
 穗積は目を丸くしてから、驚くほど大きな笑顔を浮かべた。いい名前だなっ、と上機嫌でうなずく穗積のこの素直さを、眞汰は気に入っている。本当は眞汰の名と姓から一文字ずつ取ったのだということに気付かないその単純さも含めて――大いに好感を持っている、と言っても構わないかもしれない。