涙をすくう僕の掌
 好きだったんだよ、と彼女は叫んだ。とてもとても好きだった。生まれてはじめて、好きになった。
 彼女の体はあまりに打ち震えて、絞り出すような声しかあげられないようだった。その声で、彼女を抱きしめている僕にしか聞こえない幽かな声で、彼女は叫んでいた。うん、とだけしか僕は言えない。いっそ大声を上げてくれたら、僕は安心できただろう。
 背の高い人だったという。女性としては珍しいほどの上背を持つ彼女の目線は、その人の肩にしか届かなかった。その人を見上げ、視線がまじり、ダイニングバーで一晩中ことばを交わした。閉店と同時に店を出て、夏の朝焼けが視界にひろがったとき、彼女は自分の恋を自覚した。
 声が低くて、眼が悪いのに眼鏡もコンタクトも嫌いで、冬の始まりと夏の始まりが好き。少し涙もろくて、洋楽ばかりを聞いて、映画館へはひとりで行く。そして、やわらかな雰囲気としぐさ。話していると、ふわりとぬくもりにつつまれる感触がする。
 彼女は、その人に関するあらゆる情報を僕に伝えた。宝物を見つけたしあわせを満面の笑みで表して、それを独り占めにはできない淋しさを伏せたまつげににじませて、誰かがさらっていってしまうのではないかという不安に涙を浮かべさえした。そのすべては僕がはじめて見るもので、彼女自身もまたそんな自分を知らなかった。そして今、彼に愛するひとができたという事実にこんなにも震える魂を、彼女ははじめて知覚した。
 好きだったんだよ、好きだった。叫び続ける彼女を、僕は抱きしめる。うん、うん、とうなずく。
 僕もだよ、という呟きは、胸の中でだけくり返した。好きな人に、愛するひとができたんだ。彼女が誰も選ばずにいるなら、僕を選んでくれなくてもいいと思っていたけれど、彼女はたったひとりを選んでしまった。あんな笑顔と、こんな涙を流せるひとを、見つけてしまった。ねえ、僕はきみの痛みを知っているよ。なのに、僕はよろこんでしまった。君の痛みを僕のよろこびにしてしまった。浅ましいね。だから、せめて気づかないで。醜悪さがこびりついた僕の恋情を僕は必死に隠すから、きみはただ自分のためだけに泣いて。そしていつかまた、僕以外の誰かのために、幸せの笑みを浮かべて。
 今僕らは、この広い地球の上で、きっと誰より近しく、そしてもっとも遠い場所にいる。