この小説は、ニコニコ動画で公開されているハチさんによる曲「THE WORLD END UMBRELLA」(歌詞)および「WORLD'S END UMBRELLA」(歌詞)を元にした二次創作です。
ゼア アンブレラ
 私の生まれた街に上を見る人間はいなかった。禁じられているわけではないのに、まるで水平に向けた視線より上に世界など存在しないと言うように誰もが頑なに上を見ない。私たちの街はそうやって廻っていた。だから、街の上空を覆う傘を睨み続ける彼を誰もが遠巻きにした。彼は異端だった。
 けれど、私が彼を特別に感じたのは彼が傘を見上げていたからではない。ならどんな理由でと訊かれても私は答えを持っていない。ただ、私の心は彼に反応して光るのだ。昼も夜も街を包む人工灯の光ではなく、絵本で見た青色の空を照らすあの光が、私のなかに満ちてくるのだ。
 教師はもちろん、言葉を覚え始めたばかりの子供でさえ彼を避ける。それがあたり前の反応だ。上を見るというのはあの街では最も異常な行為だったから。
 彼はどうして上を見ることをやめないのか、傘を睨み続けるのか。私はどうしても訊いてみたかった。それでも、いくじなしの私は異端の彼に話しかけるために誰も私たちを見ていないタイミングをじっと待たなければならなかった。ようやく声をかけることができたのは彼が施設にやってきて一ヶ月以上が経ち、六月に入った頃だった。傘が漏らす雨の量が増え、それにつれて雨の色が墨色からねずみ色になる季節だ。
 風邪を引いて私が寝込み、彼はいつもの通り窓から傘を見つめ、施設の子供たちは日課である散歩に出かけたほんの一時間の隙だった。何人かの教師は残っていたけれど、私と彼がいた広間と彼らのいる事務部屋とは建物の端と端に位置する。声は届かない。
 熱で頭がぼうっとしていたから、私は深く悩むことなく彼に声をかけることができたのかもしれない。
「どうして?」
 一言で、彼にはきっと伝わると思った。ソファの上に横になり毛布をかけられた私を彼は振り返った。そんなはずはないのに、彼が視線を水平に投げるのを初めて見た気がした。
 ふたりしかいない広間の明かりは落とされていた。窓から差し入る眩い人工灯で逆光になって、彼の顔はよく見えなかった。
「嫌いなんだ」
 少ししゃがれた声だ。低く乾燥した、なのに少しだけ甘味のある声。
「なぜ」
「時々、屑が落ちてくるだろ」
 傘からは、壊れた部品が雨に混じって数年に一度落ちてくる。
「母さんはあれに当たった。それで死んだ。だからおれはここに来た」
 彼はなんのためらいも見せず、むしろ堰を切ったように身の上を語った。
「好きだったの」
 私の問に、彼は初めて視線を宙にさまよわせた。どこへ向けるでもない視線が無意識に探っていたのは、彼自身の心の内だったのだと思う。
「嫌いだったよ」
 答えた彼の声は必要以上に平静だった。
 あんなにも短い言葉だけで会話したことはそれまでなかった。もしかしたら私はずるをしたのかもしれない。誰からも敬遠される彼が心を吐露したがっていることに、私はきっと気がついていた。

 その後も、私たちは施設のなかでは決して話をしなかった。視線を交えることもなかった。
 成長するにつれて外出許可が簡単に降りるようになり、丘の陰や街の片隅の廃墟で待ち合わせては、私たちはふたりきりで時間を過ごした。たくさんの話をしたけれど、それ以上にただ黙っていることの方が多かった。それで充分だった。
 そもそも私たちはお互いの心に最初に踏み込んだその時から、言葉をほとんど必要としていなかった。四年の歳月が経つうちに、彼は初めて会った頃ほど鋭い目で傘を睨まないようになっていた。
 けれど昨日、「屑が落ちた」という噂が施設に届いた時、彼はさっと顔色を変えた。四年前に戻ったような、けれどあの時とも少し違う、それは憎しみ以上に恐怖を強く湛えた顔だった。
 そして今日、ぼろぼろになった絵本を丘の陰でめくっていた私の手を引いて彼は傘の根元へ向かって駆け出した。「絵本の中に見つけた空を見に行こう」。そう、今にも泣き出しそうな笑顔で言った。
 今、私たちは傘の柄の内側にいる。ただ上へ、螺旋階段を上っていく。

 傘の柄は機械の塊だった。階段をかたちづくる壁も天井も、床以外はすべてネジや歯車で出来ている。窓もないのにぼんやりと辺りの様子がわかるのは、部品に厚くへばりついた苔の一部が光っているからだ。
 彼は私の手を握ったまま、黙って階段を上り続けている。背中を向けたままの彼がなにを考えどんな表情をしているのか私にはわからない。ゆるやかに上がっていく階段をもう何段上ったのかもわからない。私たちの街からどれだけ離れたのか、何分、何時間歩いたのか――そして、さっきから私たちの背後にいる白い影が何なのか。
 ねえ、と彼に声をかけたい。あれは何だろう、と相談したい。一段ずつ階段を進む私たちの後ろをためらうように、それでも諦めることはできないというように、同じ速度でついてくる白い霞のような影。私と同じくらいの背丈で、ぼんやりとした曖昧な輪郭は人のようにも見える。彼の手を引いて足を止め、彼に訊きたい。
 けれど私はそうできない。影はもうずっと私たちの後ろにいるのに、私はじっと彼の手を握ったまま、口を閉ざして足を動かし続けている。彼が私を振り向いたら、彼の視界にあの影が入ったら、私は今考えているのとはちがう疑問を彼にぶつけてしまうと直感しているからだ。
「ねえ、あなたにもあの白い影は見えてるの?」
 そう彼に尋ねてしまうだろう私自身が、その疑問に彼が首を横に振ることが、怖かった。影は、長い時間をかけて私と同じ姿を取り始めているように見えた。
 彼が私の手をふいに強く握った。「大丈夫」と彼が言った。振り返らず、足も止めず、手と声だけで私のおびえる心を支えてくれた。
 私はなにも答えない。代わりに視線をあげた。見えるのは彼の背中だけだ。それでいいと思った。彼が大丈夫と言うから、私は大丈夫と信じた。
 振り返ると影は動きを止めていた。ただじっと、私たちふたりを見つめている。見えもしない影の口が動いて「行かないで」と、あるいは「あなたがそれでいいのなら」と、私に言うのが聞こえた気がした。私はそっと影にうなずく。大丈夫、だって彼の手と私の手はつながっていて、私には彼がいて、そして、今頬に風が当たったもの。
「風が、流れてるわ」
 影が暗がりに溶けるのを視界の隅で捉えながら私は言った。その声は彼にだけ届く。ここには彼しかいないからというのではなく、たとえここが百人の集まる雑踏でも私の声は彼に届くし、そして彼にしか届かないと思った。
「ああ」
 彼が短く頷く声も、私にだけ届く。
 彼が足を速めたのか、私が彼を急き立てたのか、それはわからない。ふたりの靴音はおさえ切れない興奮で高く強く鳴り響いた。床にむした苔を削りながら、私たちは階段を駆け上る。
 踊り場もなく、螺旋階段が唐突に途切れたその先に扉があった。小さな、出会った頃の私たちと同じくらいの高さのドア。そして埃にまみれたノブ。
「開けるよ」
「うん」
 ノブをつかむ彼の右手、彼の左手を握り締める私の右手。

 生まれた時から人工灯に照らされて生きてきた。無彩色の世界のなかで、彩りと言えるものは雑草のささやかな緑と絵本のなかの絵の具だけだった。街に住む私が見たことのある色の数なんて、片手の指だけで足りてしまうかもしれない。
 それなのに、そんな私なのに、花が花だとわかること、空が空だとわかることが不思議だ。
 傘の地平は遠く、ずっと遠くまで続いている。果てなんかないように、まるで本物の地面みたいに。ここが世界のすべてだと言うように。
 私は彼を見ない。彼も私を見ない。ただふたりで、黙ったまま絵本で見た世界のなかにいる。どれだけでもそうしていられると思った。私に必要なものはもうすべてここにそろっていて、それが欠けることも、あるいはこれ以上のものが必要になることも、けっしてないと感じた。
 長いような短いような時間の後、彼がひとりごとのように呟いた。
「怖かったんだ――あのままじゃ、またなくすんじゃないかと思った」
 「また」と言う彼の一人目が誰なのか、彼は言わない。私も訊かない。私たちはずっと言葉のいらないふたりだった。彼のその告白を私は嬉しいと思った。彼を突き動かす存在になれたことが、私の心を光らせた。
 彼が私の手をそっと離した。そして花の群れのなかへ歩いていく。私は彼の背中を少し見送ってから、彼とは別の方向へ歩いてみた。足元はたくさんの色の花、その間にのぞく茶色の土。簡素なサンダルを履いただけのほとんど素足のような私の脚を花がなでていく。草にはないやわらかでしっとりとした感触に、私の視界が滲んでいく。
 これが私の生まれて初めての涙だと、私は気づいた。涙が出るほど心を震わせるものなど街にはなかった。
 今すぐ彼に抱きつきたい。理由もわからないまま、私のなかに衝動が込み上げる。花を蹴散らしながら彼に駆け寄り、勢いのままに彼に抱きつきたい。そうして彼の体温に触れたい。もうずっと手をつないで歩いて来たのに、私はまだ彼のぬくもりを欲している。
 そんな自分に照れるような、でも嬉しいような、たくさんの気持ちを抱えて私は振り返った。そして、花のなかにうずくまる彼を見た。
 白い影が街を出ようとする私たちを引き止めた理由を、私はただちに理解した。
 膝の間に顔を埋めたまま動かない彼を見ながら、私の心は不思議としんと静まりかえっている。私は駆けず、一歩一歩を踏みしめながら、花に足をくすぐられながら、彼に近づいていく。
 そのほんの十数歩の間に私は、私たちを止めようとしてくれた影と今も街を守り続けている傘に、心から感謝した。
 彼の隣に私は座る。まっすぐに脚を伸ばすと、花がベッドよりも優しく私を受け止めてくれる。
「私、幸せよ」
 囁いた声は、私の耳にだけ届いた。