猫の眼差し
 ほのかさんには猫とは思えない勤勉さがある。毎朝欠かさず、七時にぼくが起き出してから部屋を出るまでの三十分間、慌ただしい同居人を尻目にじっと窓の外をみつめている。アパートとマンションのあいのこのような中途半端なこの集合住宅の一階には、小さな庭がついている。一切の手入れを怠っているぼくの庭は庭と呼ぶのはおこがましいような雑草が生えているだけのただの空き地だけれど、生け垣だけは管理人さんがまめに手入れをしてくれてみっしりと育っているから、一階とはいえ他人の視線を気にすることなく気軽に窓を開けられる。たまには戸外での運動も楽しめる。それが嬉しい。
 生まれついての家猫であるほのかさんは、窓を開けてもすすんで外へ出ていこうとはしない。ぼくが気まぐれを起こして庭へ下りた時にだけ、ぼくの後を追って戸惑いがちに土の上に足を踏み出す。
 仕事に行っている間のことはわからないけれど、少なくとも休日の日中に、ほのかさんが窓外をみつめる姿を目にすることはない。同じく休日の朝、たっぷりと朝寝坊をするぼくはほのかさんの行動を知らないけれど、なんとなく、ほのかさんはその日課を日々くずさないのではないかという気がする。
 会社での昼休み、そんなほのかさんのことを同僚の女の子に「うちの猫は真面目なんだよ」と自慢のつもりで話したら、女の子は妙にまゆをひそめてぼくを見た。
「それ、なにかいるんじゃないの?」
「なにか、いる?」
 我ながら間の抜けた声を出した。
「ほら、動物って人間には見えないものが見えるって言うじゃない。林部さんちの猫、なにか見えてるんじゃないの?」
「なにか、って……」
「そりゃ、幽霊とか」
 ぼくの頭のなかで今朝の光景が再生される。いつものように、窓の外をじっとみつめるほのかさん。その視線は動かない。人間には敵わない濁りのない光を宿すほのかさんの目。そんなほのかさんの見ているものが、幽霊?
 変に生々しく想像してしまって、思わず背筋がぞっとした。
「いやあ、まさか、そんな……」
 もごもごと口のなかで反論にならない言葉をつらねる。女の子は制服の襟元を細い指先でいじりながら、
「まあそりゃ、まさかだけど。でも、動物ってなに考えてるんだかわかんなくて、時々怖くなるのよね」
「動物、嫌い?」
「嫌いっていうほどじゃないけど。自分で飼おうとか、動物園や水族館にわざわざ見に行こうとは思わないかなあ」
 その会話は、女の子が上司に呼ばれたことで尻切れとんぼに終了した。だけど女の子が言ったことは、ぼくの頭からなかなか出ていこうとしない。
 人には見えないものを見ている。人には見えない、幽霊のようなもの。まさかねえ、と繰り返すぼくを、ほのかさんの透徹した瞳が見つめてくる。かつて実家で飼っていた猫よりも、ほのかさんの瞳は理知的に見える。あまり鳴かず、粗相もせず、ぼくを困らせることを一切しないほのかさんは、動物としてはあまりに頭が働き過ぎるように思うこともある。
 普段は気にもとめない、むしろ自慢にすら思うほのかさんのそんな性格が、同僚の一言で妙に恐ろしく思えてきてしまった。動物は人より敏感だというのなら、他の猫に輪をかけて聡いほのかさんがこの世ならざるものに気づく勘を備えていたとしても、なにもおかしいことはない気がする。
 夜、帰宅するといつものようにほのかさんがぼくを出迎えてくれた。鍵を開ける音を聞きつけて来るのだろうけれど、毎晩必ず玄関先に座ってぼくを迎えるほのかさんは、やはり猫らしからぬ生真面目さの持ち主だと思う。
 ぼくはドアを開けたまま、ちょこんと座るほのかさんを見た。運動不足に陥りがちな家猫のわりに、ほのかさんの体は細い。黒と茶がまだらに入り交じったサビ模様は迷彩柄の一種のようでもある。ほのかさんの写真を実家の両親に見せたら、あんたせっかくならもっと綺麗な猫にすればよかったのに、と言われた。実家で飼う猫はもっぱら白猫かトラ猫ばかりだ。そんな家で育ったぼく自身、サビ猫を可愛いと思うことはあまりなかった。しかし、ぼくはほのかさんと初めて対面したとき、その洗練された所作に惚れ込んでしまったのだ。いたずら盛りで今よりもずっと活発だった当時のほのかさんは、それでも他の猫にはない気品を宿しているように見えた。
 このほのかさんが、幽霊を見ているかもしれない。
 ぼくはドアを閉めると、靴を脱がないまましゃがみ込んで、ほのかさんと目を合わせてみた。常とは違うぼくの行動に、ほのかさんはいぶかるような顔をしている。
「ほのかさん、君は毎朝なにを見ているの?」
 ほのかさんはぼくの顔をじっと見返す。ぼくらは十秒にも満たない間、互いの瞳のなかを覗きあった。
 にゃお、と、珍しくほのかさんが鳴いた。鳴いた顔は笑ったように見えた。
 あなたには見えないでしょうけど、良いものよ、と言われた気がした。
 ほのかさんのそんな顔を見て、昼からこっちずっとぼくの心を縛ってきた得体のしれない恐怖感が、不思議なほど簡単にするするとほどけていった。
 ふと、四歳というほのかさんの年齢を考える。猫の四歳は人間に例えれば三十路に入っている。ということは、ほのかさんは五つ近くぼくより年上なわけだ。そのほのかさんがこれだけ落ち着いている。ほのかさんが毎朝見ているものは、もしそれが幽霊であるにしろなんにしろ、悪いものではないのかもしれない。
 ほのかさんの揺るぎない態度が、ぼくにそう思わせた。ぼくはほのかさんを信じてみることにした。
 狭い廊下を渡って八畳のワンルームに入ると、ぼくは朝開け放したカーテンを音を立てて閉めた。ほのかさんはぼくについて部屋に入り、隅に置かれたエサ皿の前に腰をおろした。ぼくが帰れば、ほのかさんの食事の時間だ。ぼくは台所の食器棚を開けて、並んだ缶詰めから今晩ほのかさんに提供すべきエサを選ぶ。ぼくとほのかさんの、毎晩変わらぬ日常だ。
 翌朝、ぼくが起きてカーテンを開けると、やはりほのかさんは窓の前に陣取った。時間がないのを押して、ぼくは床に寝そべってほのかさんと目線の位置を合わせてみる。ほのかさんはちらとぼくを見ると、黙って顔を元に戻した。
 誰もいないのはもちろんのこと、密度の高い生け垣に目をこらしてみても、外の道路を行く影もない。
 ほのかさんの見ているものが、ぼくには見えない。そのことを淋しく思い、けれどそれ以上に、日々なにものかを見守り続けるほのかさんの勤勉さと慈愛深さが誇らしくもあった。
 そう、ほのかさんの瞳は確かに、窓外のなにものかをじっと見守っているように思われた。
 人に言えば笑われるのはわかっている。けれどその朝から、ぼくの慌ただしい朝に、窓の外へ向かって小さく会釈するという奇妙な日課が加わった。