猫の来歴
「あんた、静谷さんにもう年賀状出したの?」
 年末の帰省予定を伝える電話で、母は毎回こう確認する。静谷さんに年賀状を送るのはもう五度目になるというのに、問い詰めるかのような母の口調は毎回変わらない。
「まだだけど、ちゃんと出すよ。昔っから、年賀状は元旦に届くように出してるだろ」
 母さんと違って、という憎まれ口は、胸のなかでだけつけ加える。
「ならいいんだけど。普段は無沙汰してるんだから年始のご挨拶くらいしっかりしないとね」
 まくしたてると、母は「じゃあまた年末にね」と話を切り上げ、さっさと受話器を置いてしまった。ぼくは年を取っても変わらない母のペースに呆れるような、ほっとするような心持ちで、携帯電話を閉じた。
 母の妹のご主人の姉の嫁ぎ先が、静谷という。冠婚葬祭の席でまれに顔を合わすかどうかという遠縁と年賀状のやりとりをしている理由は、ほのかさんだ。
 ほのかさんはぼくが四年前の春に静谷家からもらってきた猫で、彼女をもらい受けることが決まったときに、「年に一度くらいでいいから、写真でも撮って様子を教えて欲しい」と申し入れがあったのだ。それなら年賀状ででも、ということで話がまとまり、以来ぼくは、毎年静谷家へほのかさんの写真が入った年賀状を送っている。
 ほのかさんがぼくの元へ来てまもなくの頃、デジタルカメラを新調した。もともと持っていたカメラはあまりに流行遅れの型で、めったに使わないぼくはそれでも不便は感じていなかったけれど、活発に動くほのかさんを納得のいく鮮明さで捕らえるにはやはり少し力不足だった。家電量販店に行って店員に薦められるまま買った最新型のカメラはおもちゃのように軽くて心もとなく、ぼくは妙に不安になった。けれど実際にシャッターボタンを押してみると、液晶画面には素人のぼくが撮ったとは思えないほど生き生きとしたほのかさんが映っていた。
 ほのかさんがぼくの部屋で暮らすようになって四年半、ぼくは定期的にほのかさんの写真を撮る。そして十二月に入ると、一年撮りためた数十枚に及ぶほのかさんの写真を見比べ、選び出し、静谷さんへの年賀状を作るのだ。
 パソコンのモニターと実物のほのかさんを見比べてこの一年で変化した部分を見つけ、季節によって違う表情を見せるほのかさんに改めて驚き笑っていると、写真はなかなか決まらない。年賀状に使う写真を選んでいるはずがいつのまにかほのかさんの一年を振り返ることに没頭していて、写真はちっとも絞り込まれない。ぼくの十二月の週末は、そうやって過ぎていく。
 ほのかさんは、冬場にはホットカーペットの上でうとうとするか、ぼくのひざの上に乗って暖を取っていることが多い。ひざの上にいる時には「ほのかさん、どの写真がいい?」とお伺いを立ててみることもあるけれど、当然答えは返って来ない。むしろ、退屈するとノートパソコンのキーボードの上に前足を乗せて、写真選定の邪魔をする。
 写真を選んでいると、ぼくはいつも、出会ったばかりのほのかさんを思い出す。生後一ヶ月足らずで出会ったほのかさんは、静谷家のリビングで、兄弟猫三匹とかたまって眠っていた。兄弟それぞれてんでばらばらの色模様で、他の二匹は燕尾服のような絶妙なバランスの白黒猫と、濃灰のトラ猫だった。
 寝ている三匹を見ながら、ぼくは最初トラ猫をもらおうかと考えていた。両親が選ぶ実家の猫にはトラ猫が多くて、子供の頃から一番親しんできた柄だったのだ。けれど黒と白のコントラストの鮮やかさも魅力的で、二匹の間で気持ちが揺れていた。黒と茶がまだらに混じり合ったほのかさんのことは、考えるまでもなく対象外として捉えていた。
 それが、目を覚まして動きまわり始めた三匹を見ているうちに、兄弟猫より一回り小さなそのサビ猫から目を離せなくなっていた。縁とは奇妙なものだと、思い返すたびに深い感慨に浸される。どことも指摘できないほのかさんのささいな所作が、どうにもぼくの心を惹いた。
 捨てられていた三匹の子猫を保護したのは、静谷家のひとり娘だった。産まれたばかりで河川敷に捨てられていたのを、仕事帰りのお嬢さんが鳴き声に気がついて拾い上げた。まだ夜には寒さの残る、初春のことだったという。気難しい先住猫のために、拾った子猫を育てることはできないだろうと判断した静谷家が貰い手を探し、当時一人暮らしの寂しさに耐えかねて猫を飼おうかと考え始めていたぼくの元に、母を通して話が回ってきた。
 捨て猫だと聞いて怯えきった子猫を想像していたぼくは、奔放にじゃれあう三匹を見て、
「案外元気なものなんですね」
 と静谷家の奥さんに声をかけた。奥さんは穏やかな声音で、
「捨てられた時、まだ目が開いてなかったから。なにがなんだかわからなかったのが、かえって良かったのかもしれないわね」
 と答えてくれた。まだ目の開かない時期に母猫から引き離され、それでも跳ね回って遊ぶ三匹の姿を思い出すたび、ぼくは胸の奥のあたりが締めつけられる。
 写真を見ているとはっきりと気づくことだけれど、飼い始めた頃に比べて、ほのかさんに一年を通しての目立った変化はなくなった。一枚目の年賀状では成長していく様子を伝えたくて季節それぞれの写真を一枚ずつ選んで四枚の写真を印刷したけれど、その後は選び抜いた一枚だけを大きくプリントしている。それでこと足りるほどに、ほのかさんは成熟した。猫の成長は早い。次に目立った変化が現れるのは、偏った食生活でもさせて体重が激変しない限りは、老いがほのかさんを捕まえ始めた頃になるだろう。
 他の年賀状とは別に一枚だけ刷った静谷家用のハガキに宛名と近況を書いていると、今年も一年が終わるなという気分になる。普段はめったにしない手書きで文字を書くという行為に、ぼくは毎年妙に緊張する。ほのかさんはその気配を察してか、ぼくが年賀状を前にペンを持つと決してひざの上に乗ってこようとはしない。年賀状とほのかさんとの間で何度も視線を行ったり来たりさせながら、ぼくは短いメッセージを、考え考えつづっていく。
 毎年、仕事納めの翌日にはほのかさんを連れてぼくは実家へ帰省する。ゲージを押入れから出すとほのかさんはいかにもいやそうな顔をするけれど、ありがたいことに、激しい抵抗はせずに小さなゲージへ収まってくれる。
 ぼくがサビ猫を引き取りトラ猫は静谷家のご主人の同僚が引き取り、最後まで良い貰い手が見つからなかった燕尾服の彼は、結局そのまま静谷家で飼われることになった。
 実家には、おおざっぱな母が作るとは思えない豪勢で美味しい料理と父の愚痴話と、そして、もう十年以上も我が家で暮らしているトラ猫のかのこが待っている。元旦には、静谷さん一家からの、ほのかさんの兄弟猫の写真が入った年賀状が届く。