眠られぬ夜に
 あなたは夜の海に横たわっている。視界の届く限りに島はなく、水平線は大きく円を閉じている。空は高く晴れ渡り、海に溶ける際にだけ、薄い雲が細くたなびく。東に出ている月は日向に寝そべる猫の瞳孔のように細い。繊月の弱々しさを補うように星々が強く数限りなく瞬く。その無数の光を反射して、波頭もまた青白くきらめく。
 夜、あなたは海の上に横たわっている。さざ波を立てる水面にその体を預けている。万物の法則が失われた海はあなたの重みを苦もなく支えている。仰向けに寝ても、うつぶせても、胎児のように体を丸めても、海はしなやかな柔軟さであなたを受け止める。あなたはあなたにとってもっとも心地のいい姿勢になる。海水はほのかな冷たさを持って心地良くあなたを冷やす。
 月星の万の光はまぶたの皮一枚で遮られる。まぶたの作る暗がりに導かれてあなたの意識は静まってゆく。眠ってはいない。しかし明確な思考もない。ただ、感覚だけがぴんと張り詰め、研ぎ澄まされてゆく。
 あなたの目はまぶたを見つめ、あなたの耳は水のたゆたう音を聞き、あなたの鼻は潮の香りを嗅ぎ、あなたの舌は唇の隙間から侵入してくる海水の塩辛さを味わい、あなたの皮膚はあなたを揺らす波と吹き過ぎる風を感じる。それ以外のものはすべて、言葉も感情も、記憶すらも遠く淡い。
 やがて、あなたは時間の感覚を失う。だからどれほど波に揺られた後のことかはわからない。あなたの体はその姿勢を変えないまま、そっと海のなかへ飲み込まれる。表面張力の抵抗はない。海があなたを受け入れたがっている。渦ひとつ起こすことなく、あなたは海へ潜る。
 沈下を始めてすぐに、あなたは水中でありながら息苦しさのないことに気づく。あなたの体は海のなかで呼吸する方法を覚えている。一切の苦しさを感じることなく、あなたは海に沈んでゆく。重力によって沈む速さではない。絹地をたぐるようなおおらかで滑らかな速度で、あなたはゆっくりと海中を落ちる。
 あなたの体は海底へ向けて垂直に落ちてゆく。海上にいた時よりも水はあたたかく感じられ、耳にはうなるような水音が響く。周囲すべてを原始の水に包まれて、あなたはまっすぐに落ちてゆく。
 昼なお薄暗い水域にまで落ちた頃、あたりに小さな魚の群れが集まってくる。せいぜいが鯵や鰯のような、あなたがその両手で掴むことが出来る程度の大きさの魚たちだ。幾百幾千と集まったその群れがあなたを取り囲む。あなたは皮膚と耳が受け取る情報で魚の存在を感じ取る。群れ踊る魚たちが無軌道な水の流れを起こし、魚同士がぶつかり合うざわめきのような音が絶え間なく周囲を埋める。
 あたりを囲んだ魚たちはあなたの体をついばみはじめる。小さな魚たちにとって、あなたの体は突如現れた外界からの恵みだ。長く海水に触れていたあなたの体は既に魚たちが楽に食い破れるほどにふやけている。耳や眼球、二の腕やふともも、尻、腹といった柔らかな部位から、魚はあなたの体を食べてゆく。彼らが一度に食べてゆく量は決して多くない。あなたが体積の一割を失ううちにも魚の数は増え続け、今やあなたは巨大な銀の群れに覆われている。
 体の端々をちぎられながら、あなたは痛みを感じないことに気づく。あなたは痛覚を失っている。そしてまた、意識にも変化が起こっている。魚に体を食べられるということにあなたは、恐怖も、嫌悪も覚えない。体という物質はあなたにとってかつてのような意味を持たなくなっている。あなたは体に対する執着をなくし、引き換えに他の命に自らの命を分け与える幸福を知る。それは生物が生物である間は、我を守る本能を持ちながら生きている間には得られない愉悦だ。あなたは自分の体が魚の糧となることを喜ばしく感じる。
 魚の群れに囲まれ、ついばまれながら、あなたはなおも下へ下へと落ちてゆく。と、ふいに、あなたから魚たちが遠ざかる。魚が潜ることのできない深さにまであなたは沈んできた。まだ食べどころのありそうなあなたの体を魚たちは名残惜しそうに見送っている。
 あなたは体のところどころを失った。しかしあなたは、その失った部位の感覚を今も持っている。形を損ねながらも、あなたという存在自体はひとつも欠けていない。
 あなたはあの快適な姿勢のまま、寝返りをうつことも、目を開けることもなく、ただ海を落ちてゆく。魚に食われた部位から血が流れ出す。水の中で血の流出は止まらず、あなたの周りは海水と血が混じった赤い液体でいっぱいになる。あなたの皮膚はあなたの血によってかすかにぬくんだ水温の変化を感じ取る。それはどんなに上質な毛布よりもやすらかにあなたを包む。
 あなたが海のなかを行くように、海の方もあなたのなかへ潜ってくる。潮水が傷口からあなたの体へ浸透して、あなたの体は腐敗を始める。体は分解され海へ散ってゆく。そうしてあなたの体は生命としての活動を止め始める。体がくずれるにつれ心臓の鼓動はしだいに間遠になり、脳へ届けられる酸素の量も減ってゆく。肉と脂肪と内蔵が溶け失せ、あなたの骨は一本一本、ひとつひとつ、海の底へと落ちてゆく。肉体があなたから乖離する。
 血が流れ、肉は腐敗し、骨もばらけた。しかしあなたはあなた自身を何も失っていない。目、耳、舌、皮膚、すべてが海を感じている。そして、あなたはただあなたという存在になって海底へと辿りつく。
 間近にせまった海底には、細く深い海溝が走っている。海溝は、光が届かないがための暗さではなく闇そのものが息づく場所である。海溝はあなたを誘い、あなたは海溝を望み、そしてあなたは闇のなかへと吸い込まれてゆく。
 海溝に入ると水の流れが変わった。あなたは鋭敏な感覚でもってその変化を感じ取る。あなたの耳に耳鳴りのような水の巻く音が轟く。皮膚が粘度を増したような海水の触りごこちを受け取る。あなたは海溝に住む生きた闇に飲み込まれる。
 濃密な闇に圧されたように、あなたは海溝を進みながら急速な退縮を始める。
 海上にいた頃から常に変わらぬ鋭さで周囲の様子を受け止めていた五感が鈍り、わずかにうごめきを続けていた感情のうねりは弱り、あなたの意識は曖昧に輪郭を失う。退縮に際限はなく、あなたはただひたすらになにか小さなものへとなってゆく。
 母体のなかでの成長を逆にたどるように、あなたは存在そのものが極小へと向かう。不安はない。恐れもない。むしろあなたは、もうかすかになった感情でもって底なしの安堵とやすらぎを覚える。あなたはかつてない安心感に満たされる。
 あなたの存在は退縮するのと同時に、霧散しているのでもある。あなた自身はその存在を薄れさせ、かつてあなただったものは無辺の海へと果てしなく広がってゆく。
 その間にも、あなたは海溝の底へ向けて進み続ける。ぬるい温度の闇に包まれ、導かれて、ついにあなたは奥底へとたどり着く。あなたは最後に残った五感のうちのどれとも知れない感覚で、その最奥を感じ取る。そこへ触れると同時、あなたの存在は最後の一片までが残らず無へと還元される。あなたの存在は海へと溶ける。あなたはあなたの実在を手放す。