この小説は、「ことばの貯まり箱」のリュイさんの作品である「祖父のキャンバス、彼女の名」を、ご本人の許可を頂きリライトしたものです。
祖父のキャンバス、彼女の名
 祖母の家の廊下は一足歩くごとにミシミシと鳴った。子供の頃くり返し訪れたあの家はどこもかしこもがたが来ていて、なかでも黒く底光りする廊下板は、真綿のように軽かった当時の彼女が歩いてすらおかしな悲鳴をたえず上げた。
 薄暗い廊下は玄関から家の裏手までを一線に結び、突き当たりの右手には片開きの引き戸がある。幼い日の彼女が引き手にそっと指先をかけると、開いた隙間からは奥の間独特のにおいがふわりと漏れ出てくる。息をひそめて覗き見る室内は廊下と打って変わって明るい光に満ち、大きな南向きの窓の前には無垢材でできた頑丈な椅子が置かれ、そしてその椅子の上には、彼女の祖父の姿があった。古ぼけた祖母の家のなかでも、いっとう古びたものがあった。
 記憶のなかで、祖父は常に彼女に横顔を向けて座っている。果たして自分は彼の顔の左側を見たことがあったろうかと、祖父の居住いを反芻するたびに考え込む。そして、ほんの時折は祖父が正面から自分を見つめてくれたと思い出し、なんとはなしに息をつく。しかしその一瞬後にはまた、祖父は彼女の脳裏でその横顔だけを見せている。
 祖母の家を訪れるたび祖父の元へ向かう彼女に、祖母と母はいい顔をしなかった。ふたりは自らの夫を、父を、どこか疎んじていた。その理由は今もかつても彼女にはわからない。母は時折、祖母の家からの帰り道に彼女の手をぎゅうぎゅうと強く締めつけながら、「駄目よ。あの人は、駄目よ」と繰り返し呪わしげに呟いていた。そしてより小さな声で、「あんな人に懐くなんて」と低く口中で吐き捨てた。
 彼女の母は、奥の間に入り浸る彼女を見て娘は祖父を好いているのだと思い込んでいた。けれど実際のところ、あの頃の彼女にとって祖父の枯れ木のような風貌は恐怖の対象だった。
 祖父は恐ろしく痩せた人だった。彼を包むワイシャツもスラックスも、その布を所在無げに余らせた。頭髪は残らず消え失せて、かろうじて残った眉や髭も極限まで薄れていた。潤いを持たず精彩にかけた彼の姿は、母や自分と同じ人間という生き物にはとても見えなかった。小学校に上がって初めて真冬のサルスベリを見た時に、まるで祖父の皮膚のような木だと思ったのを覚えている。
 祖父はそのかたわらに、活力を片端から吸いとってゆく何ものかをはべらせているようだった。その何ものかに人間としての体のすべてを奪われつくして、そうやって祖父は人の世界から樹木の世界へと踏み越えてゆくのだと思っていた。むろん、緑生い茂る豊かな常緑樹ではなく立ち枯れた古木へと。煙草を摘む祖父の指は枯れてなお養分を吸い取ろうとする恐ろしい根のようで、胴体よりも一足早く彼の指はすでに木になってしまったのだと想像した。
 いつ戸をあけても変わらない姿で座している祖父は、しかし恐ろしいと同時に好奇の対象でもあった。だから彼女は、祖母の家を訪れる度に廊下の最奥にあるあの引き戸を開けたのだ。恐怖はあったがそれは回数を重ねるうちに薄れ、愛情の芽生えることのない代わりに嫌悪が生まれることもなかった。祖母と母が嫌った煙草も彼女には気にならなかった。煙草に火をつける前、祖父は彼女を見て「内緒だ。お前は良い子だ。内緒だぞ」と言った。彼女は長く祖父と同じ空間を過ごしたけれど、彼が彼女に視線を向けるのも、彼の顔の左側がのぞくのも、ほとんどその時だけだった。色のない祖父の唇に刺さった煙草が生み出す紫煙は、不動の彼に代わるように悠々と天井近くまで漂った。
 あの日も、祖父は椅子の上に納まって煙草を喫っていた。彼女もいつも通りに、つかず離れずの距離から祖父をそっと盗み見ていた。祖父が前触れなく視線を彼女へ向けた。日差しの色は白く、まだ夕刻には遠い時間帯だった。
「見て御覧」
 その声は喉の奥にブリキを仕込んだようなひどい嗄れ声だった。しかし普通ならぎょっとするような声も、祖父の容貌から発されると違和感を生まなかった。
 彼が視線で示した先を彼女は見た。その時になって初めて、それは彼女の意識に入ってきた。果たしてそれがいつ現れたのか、彼女が部屋に入った最初からずっとそこにあったのか、彼女には見当もつかなかった。だというのに、一度目に留めてしまうともう二度と視界からそれを去らせることはできなかった。なぜ今まで気づかずにいられたのかと彼女は訝しんだ。それはまばゆく日差しを照り返し、祖父の顔に太陽とはまた別の光を投げかけていた。
「これは画布というんだ」
 その紹介に、彼女はわざとしかめ面を作って噛みついた。
「キャンバスではないの」
 幼子の意味のない反駁に、祖父はひっそりと声なく笑った。笑いながら、「そうとも言うよ」と彼女の反論を受け止めた。意外なほど慈しみを湛えた笑みだった。そう答えながら、祖父はその手を伸ばして孫娘の頭を撫でた。祖父が彼女の体に触れるのは、後にも先にもその一度きりになった。
 ろくに関節の曲がらない祖父の手は予期していた以上に生命を感じさせないものだった。その指の感触に、祖父の体はとうとう枯れ果てかけているのだと彼女は直感した。けれどそれを言葉にして表す方法はわからず、その時は明確な思考になることもなく、ただ彼女は孫としての役割を急に思い出したように祖父への親しみ示すはにかんだ微笑を浮かべた。
「どうするの。何か描くの」
 孫の本分をまっとうすべく、彼女は口調をやわらげて祖父に問うた。自分でもわざとらしいと感じるほどの猫なで声になったが、しかしその質問自体は彼女の本心から発せられたものだった。絵画に興味を駆られたことなど一度としてなかったけれど、もし祖父がなにかを描くのであれば、その絵は必ず観たいと願った。植物の指先が握る絵筆は何色に染まるのだろう。それが何色であれ、祖父のヒトから離れた手によれば、暗闇を描いてすらそこには美が見えるだろうと思った。
 しかし祖父は、彼女の胸に芽生えた期待の萌芽を膨らみ切る間もなく打ち砕いた。
「いいや。何も描かない」
 彼女のほのかな願望など入り込む余地のない声音だった。祖父は孫娘の願いに気づいてすらいないようだった。
 白紙のキャンバスを前に何も描かないというのはなにかひどい裏切りのように感じられて、彼女はちらと憎々しげに祖父を見上げた。
「それでは何故?」
 何故キャンバスなど置いているの。
 裏切りへの不服を感じながら、それでも彼女は幼く無知な孫娘としての役目を投げ出さなかった。純朴な口調のまま重ねて尋ねた。と、祖父は彼女の頭からその手を外した。そしてたった今交わした会話などなかったようにまた彼女に顔の右側を向けた。そのままいつもの塑像のような姿に戻って行くかに思えた。
 しかし彼女の目は、祖父の口がなにか語りたげにもごもごと動いているのを見逃さなかった。祖父はふと気づいたように、左手の指に挟んだままだった煙草を灰皿にねじ込んだ。灰皿にはすでに幾本もの吸殻が山となっていた。やがて彼は再び彼女の方を向き、たるんだまぶたの下から細くのぞく瞳を彼女に向けた。その時彼が言ったことを、彼女はこう記憶している。
「お前が私と同い年になった時、一日中ここに座りこの画布と向き合っていなさい。そうして自分の名前を思い出しなさい。それが、全てだ」
 その日からしばらく後、祖父は他界した。結局、祖父が生を踏み越えて行った先は植物の世界ではなく有象無象の人々と同じ死の世界だった。彼の逝った後には画布と煙草だけが遺された。そのあまりにあっけない死に様には、潔さではなく侘しさばかりが漂った。
 祖父の死後、初七日が終わった頃に彼女は一度だけ奥の間の戸を開けたことがある。そこには一脚の椅子が、頼りなげに立っていた。祖父を乗せていない椅子はあまりに不自然だった。人間を支えるためにあるはずの椅子は、むしろ祖父の存在に支えられてそれまでそこにあったようだった。祖父の上を流れる時はそこで止まった。
 しかしその椅子を見つめる彼女の方には、もちろんまだ永遠と感じられるほどの長い年月が残されていた。用意された時間を、彼女は一年、一年と刻んで行った。
 あの部屋は祖父に許されていた唯一の空間だったのだと、ようやく思い至ったのはだいぶ後になってからだった。幼い彼女は奥の間には独特のにおいが満ちていると感じていたが、あれは正確には彼の喫う煙草のにおいだった。そしてあの家の他のどの部屋からも、煙草のにおいはしなかった。
 一年が十年に、十年が二十年になりするうちに、彼女は着実に祖父の側へと歩んでいった。彼の存在を忘れていた時も、思い返していた時も、時は等しく彼女を祖父と同じものへと変えていた。
 そして若い頃にはわからなかった自分を運ぶ時の作用に気づいた時、同時に彼女は、祖父が自分に遺していったキャンバスの意味をも理解した。
 それから更に数十年が経ち、彼女はとうとう、しまい込んでいた祖父のキャンバスを取り出した。
 かつて祖父が一青年から夫になり、父になり、そして祖父になったように、年を経るなかで彼女は妻になり、母になり、祖母になった。新しい立場を得ながら愛すべき家族が増え、代わりに名前を呼ばれることは減っていった。彼女の名前は彼女自身のなかからすらその存在を薄れさせた。名を失うということの心の底が抜けるような寂しさは、彼女の胸に紛らすことのできない小さく深い穴を開けた。
 そんな誰も呼ぶもののなくなった彼女の名を、今、唯一呼んでくれるものがある。
 おじいちゃんの名前は何だったかしらね。
 口には出さないまま呟きながら、訪ねて来ていた子供と孫が去った森閑とした家の一室で、彼女は祖父の遺した画布と向き合う。時の経過によって真白かった画布は一面を夕日のような橙色に変色させている。画布は声なき声で彼女の名を呼ぶ。画布と向き合っている間だけ、彼女は自分の名前を心の底から思い出す。画布の発する声は耳でなく頭のなかに響く。それはあの祖父の声のようであり、彼女自身の声のようであり、おそらくは彼女がこれまで聞いてきた彼女の名を呼ぶ幾多の声のすべてだった。夕子、夕子と、画布は彼女の名を呼んだ。
 斜陽色に変わった画布に本物の夕暮れの日差しが重なり、彼女に眩しく柔らかな光を投げかける。彼女は最近、自分の皮膚を見下ろしては冬枯れたサルスベリの木肌のようだと思う。体中から瑞々しさと生気が抜け落ち、特に指先は、かさかさと音を立てそうなほどにしなびている。
 かつて祖父の横にはべり祖父を枯れ尽くさせたものが、今は彼女と共にあった。