愚女の怨言
 寒々とした村があった。一年の半分を雪に覆われる北の地に数十戸の家々が並ぶ。外部とつながる道は一つきりの、閉鎖された土地である。
 そこに不幸な女が一人住んでいた。やせぎすの体は筋張って、女にしては高い背がなおさら細長く見える。肌は潤いを失い、踵や指先は今にもくずれ落ちそうなほどひび割れていた。唯一そこだけがやけに豊かな胸のふくらみをろくに隠そうともせず、破れ、汚れた、ぼろ布のような一枚つなぎの服を着ていた。
 村人の誰も女の名を知らなかった。ある日突然、村長の息子が村の外から連れてきた女である。日に焼けた栗色の蓬髪を背中のなかばまで垂らし、そのすき間から世を恨むような光のない眼つきで周囲を睨めつけていた。
 日の暮れかけた頃には女が一人村の目抜き通りを歩くのが見受けられた。ももの半分までしか丈のない服を着て、裸足の足をひきずるように歩いていた。村のなかで、子供と獣、そしてその女だけが、裸足で歩く生きものだった。
 並び立った二つの家が作る道とも言えぬ狭い隙間の前を通り過ぎる時、かき消えるように女の影が見えなくなることがあった。暗がりに吸い込まれる女の二の腕には節くれだった男の指がからみついている。小一時間もすると女はまた目抜き通りに現れたが、そのまま一晩姿の見えぬこともあった。明け方になって村長の家の裏戸をくぐる女を、屋敷の女中たちは汚物を見る目で侮蔑した。
 女を村に連れ込んだのは村長の末子の三男だった。両親からさじを投げられた道楽息子は、女がどこで何をしようと知らぬげに見えた。しかし女の顔や体に紫の痣が浮かぶのは、決まって女の帰宅が遅くなった翌日である。
 雪解けのぬかるみが乾いた頃にやってきた女は、真夏の手前まではそのようにして過ごした。そして初夏の雷雨の夜を境に、女は村長の家に二度と現れなかった。夕暮れ時に徘徊する光景も見えなくなり、村を出たのだろうと誰もが思った。村長の三男は目に見えて不機嫌になったが、あくまで押し黙ったままだった。
 だが、一週間も経たないうちに女を見たという村人が出た。酒屋の御用聞きの青年である。東のはずれのあばら屋にいたと青年は証言した。東のあばら屋といえば凶暴な男がひとりで住む家である。ひどく無口で、一言挨拶を交わすよりも拳を振りかざすことのほうが得意な男だった。村人らは飯炊き女が欲しくなったのだろうとも、気ままに殴る相手が欲しくなったのだろうとも、勝手気ままに噂した。以前と違い、女が村へ現れることはそれきりなかった。定期的に男の家を訪れる御用聞きが姿を見ることすら珍しかった。
 三男の死体が出たのは、女が消えておよそひと月後のことである。
 村の南を流れる川岸で三男の体は見つかった。後頭部は岩ででも殴られたように深く陥没し、浅い水際にその顔を浸らせていた。村長の妻は昨晩息子がやけに酒を呑んで荒々しく家を出て行ったと訴え、幾人もの村人が東へ向かう三男を見たと口やかましく言い立てた。村では二十年ぶりに村外の警察を呼んだ。やってきた四人の警官にほどなくして捕まったのは、村はずれに住む男である。
 逮捕劇を見物に来た村人らが取り巻くなか、警官が戸を叩くとあばら屋の外に男が現れた。遠く見守る村人らに警官の話す声は聞こえなかったが、男が不遜に頷くのは見えた。
 警察がその手首に縄をかけていると、家の奥から足音が近づいてきた。犬でも走ってくるのかと思うような軽い足音だったが、現れたのはあの女だった。
 村人らは荒んだ女の格好に息を呑んだ。かつても充分にやせ細っていた体がさらに肉が落としていた。左足を不自然に引きずり、全体にまともな様子ではない。いびつな骨組の上に死人の皮を貼りつけた、不格好なはりぼてのような見目だった。瞳だけが爛々と輝いていた。
 だが何よりも村人らの目を引いたのは女の胸元である。かつて服だったものは大きく裂け、女の豊満な胸はほとんどあらわになっていた。しかしかつて女の体を利用した男らですらその様に欲情を誘われはしなかった。
 女の胸は原型を思い出させぬほどに無残に切り刻まれていた。あふれた血は女の服に茶褐色の染みを濃淡激しく広がらせ、皮膚にこびりついた生乾きの血液の下では黄色い脂肪が爛れ腐り落ちかけていた。女たちは一歩足を引き、目をそらした。男たちは逆に目をむいて、女の尋常ならざる変わり果てた姿を凝視した。
 なえた足取りで女は警官の一人にかけよった。絡みあうように足がもつれたが、転びはしなかった。女はすがるように警官の腕をつかんだ。警官はおびえながらも、かろうじて女を抱きとめた。しかし強烈な腐臭に顔をしかめるのは抑え切れなかった。
「連れていかないで!」
 最中の悲鳴のような嬌声をのぞけば、どの村人にとっても女の声を聞くのはそれが初めてのことだった。とうに破れた喉をなおも鳴らすような声だった。凄絶ですらあるその叫びに、男を連行していた警官の足が止まった。
「連れていかないで!」
 それ以外言葉を知らぬように女は繰り返して叫んだ。
 誰もが女を注視する中、男だけがその声の届かぬ空間にいるかのように反応せず、歩をゆるめず歩き続けた。男に打たれた縄が警官が動かぬためにぴんと張り、そこで男はようやく不満げに足をとめた。
 四人のうち一番老齢の警官が男の前に回り「おい、いいのか」と声をかけた。警官の声には蔑みと背中合わせの憐れみから来る労りが込められていたが、男はそこらに転がる石と変わらぬ無感動な顔を警官に向けた。
「もういらねえ」
 野太い声は低く地を這い広がった。その視線は目前の警官にだけ向けられ、女の存在など知らぬ気に見えた。
 警官は男の言葉の意味をはかりかねたように一瞬呆けた顔をしたが、男はかまわず無理矢理に足を進めた。縄を持った警官は一、二歩引きずられ、それから改めて村の中央へ向かって歩き出した。それは幼子が大型犬の散歩をしている風景を彷彿とさせた。
 壊れたように同じ言葉を繰り返していた女は、男の声が鼓膜に届いたその瞬間にぱくりと口を閉じていた。
 女を抱きとめてた警官がそっと身を離すと女は自立した。出来の悪い人形のような不安点な立ち姿だったが、自立した。
 警官はおののくように、同僚たちの後を追って走っていった。もはや人とも思えぬような格好で、女はひとりそこに立っていた。女に声をかける者などなく、一歩距離を縮める者すらいなかった。村人の群れは風に散らされる灰のようなあっけなさで次々に去っていった。
 村人のすべてが消えてから、女は家のなかに引き返した。そして男を思って泣いた。土間に座り込み滂沱と涙を流しながら、女はその手に刃物を取った。かつて男が女に傷をつけるのに使った短刀である。柄を握り、女は自らの体を傷つけ始めた。かつて男がつけたのよりも多くの傷を、女は自分で自分の体に刻んでいった。男の不在を悲しんで、泣きに泣きながら傷を重ねた。
 手を動かしながら女の目は虚空のどこか一点を見つめていたが、やがてその瞳は焦点を失っていった。手だけが機械のように傷を深める。いつか、女の赤切れた唇が開く。その口中には地獄より深い深淵がある。
「生きなければならないなら生まれたくなかった」
 光の入らない土間の底で女の口から呪い言がもれた。自身の存在を根底から恨む声は誰にも届かないが、女の声帯は同じ言葉を重ねて止まない。
「生きなければならないなら生まれたくなかった」
「生きなければならないなら生まれたくなかった」
「生きなければならないなら生まれたくなかった」