「ヒメはさ、本当に毅のことが好きなの?」
思いつめた嶺生(みねお)の表情はますます鋭さを増していた。痛々しいほど引きつった目をしながら、しかし妃芽を詰問する嶺生の口調には、同時にどこか手加減がある。子供の見え透いた嘘を叱る大人のような、自発的な反省を促すために結末のわかった問答をあえてするような、相手の愚かさを見通す者の容赦が嶺生の口調には存在する。
「違うでしょう。毅が私の恋人だから、私の好きなひとだから……、ううん、私が好きになったひとだから、好きになったんでしょう。でも実はそれすら違うんだろうね。私が気に入ったものだからって、自分も好きなんだってことにしたんでしょう」
ふたりの間を強い潮風が絶え間なく走り、妃芽の長く伸ばした黒髪も嶺生の短い茶色の髪も、等しい激しさでかき乱してゆく。顔のなかばを風に吹かれる髪に隠されながら、嶺生は感情を押し殺した声音で妃芽の恋を正確に断罪する。妃芽はその声を受けながら、コンクリート塀の向こうで積み上がったテトラポッドを見つめている。
嶺生と付き合っていた毅が妃芽の恋人になったのは十日前のことだ。そして毅がそれを嶺生に告げたのがその三日後、今日からちょうど一週間前のことだった。黒い雲が空に広がったその日、太陽の見えない十月下旬の一日は寒かった。空は暗く、この海はテトラポッドと変わらないくすんだ灰色に淀んでいた。ふたりとも指先を凍えさせながらこの護岸された海辺で話をしただろう。けれどそれまでのふたりとはちがって、互いに温もりを求めて触れ合ったりはしなかっただろう。
「嶺生にはおれから話すからヒメは気にしなくていいよ」。妃芽の新しい恋人はそう言った。だから妃芽は、同じ教室で授業を受ける嶺生の存在を一週間のあいだ無理やり意識の隅に追いやってきた。嶺生とは中学一年生でクラスメイトになり、翌年に親友になった。それからの二年半、彼女と言葉を交わさない日は何十日となかった。そんな嶺生と七日間ものあいだ目線を合わせることもなく過ごしたのは初めてのことだった。そして、その七日間で妃芽の心の奥から化石が姿を表すようにゆっくりとあらわになった感情は、嶺生に対するどうしようもないうとましさだった。
妃芽は自分の名前が嫌いだ。骨太な体やごわつきながらうねる髪、黒ずんだ肌を持つ自分に対して、この名前はあまりにいとけない少女の匂いに満ちている。両親から期待されたものと現実の自分の質の悪さに、妃芽は四六時中引き裂かれて育ってきた。そんな妃芽の意識に、嶺生はまず名前として飛び込んで来た。入学式で配られたクラス名簿をざっと眺めた時、顔も知らないまま妃芽は嶺生に好感を抱いたのだ。女の欄に交じる男のような名前が妃芽の視線を引きつけた。彼女も自分の名前を嫌っているだろうと妃芽は瞬間的に直感した。
糊がききすぎて着心地の悪い制服に包まれ、アナウンスに促されて立っては座りを繰り返すだけの入学式をやり過ごす間、妃芽はずっと「嶺生」のことを考えていた。彼女の外見は、趣味は、成績は、言葉遣いは。嶺生がどんな女の子でも、彼女がそぐわない名前という一点で自分とつながっている以上、自分はきっと彼女を好きになるだろう。妃芽は一心に信じて疑わなかった。
割り振られた一年二組の教室へ行くと、妃芽は自分の席を確かめるより先に嶺生の姿を探した。窓から三列目、後ろからふたつ。教室の右隅に嶺生の席はあった。そこに座っていたのは線の細いどこか陰鬱な雰囲気の少女で、ざわめく教室のなか、彼女はどこを見るともなく茫洋とした視線をじっと宙に投げかけていた。
それが妃芽にとっての嶺生との邂逅だ。嶺生に妃芽と出会った時期を尋ねれば、中学二年生の四月、校外授業の地域散策で同じグループになった時にと答えるだろう。妃芽は一年間、嶺生に近づくなんのきっかけもつかめず過ごした。片恋のようなじりじりとした期間を過ごして、だからこそ、二年生に進級しても嶺生と同じクラスになったことは妃芽にとって運命だった。無理にも嶺生に近づかなればと考えたし、実際にそうした。妃芽が嶺生にこの一言を投げかけたのは、妃芽にとっては一年越しの、満を持した思いだった。放課後、グループで回る地域散策の順路を決めている時だった。他のメンバーは部活なり委員会なりで顔を出せない、妃芽にとって絶好のタイミングだった。
「嶺生ちゃんって、男の子みたいな名前だよね」
それで充分だったはずだ。こう語りかければ嶺生は「そうなの。すごくいやなんだ」と答えるはずだ。そうしたら今度は妃芽が自身の名前に対する嫌悪を吐露する。そしてふたりは同じ劣等感を共有する者同士として互いをかばい合う関係になれる。そのはずだった。一年の時間をかけて熟成したその空想は、妃芽のなかではもはや事実となっていた。妃芽の予想通りの応えを嶺生は返した。けれどその後、嶺生はさらに言葉を継いだのだった。
「でもね、私に名前をつけてくれたのっておばあちゃんなんだ。嶺の上のように右も左も均等に見えるところで、どちらか一方に偏ることなく、公平な心を忘れずに生きていく子でありますようにって、そういう意味でつけたんだって。それを聞いちゃったら、やっぱり嫌いだなんて思えなくなっちゃった。ちっちゃい頃と違って、最近はもうからかわれることもないしね。かえって気に入り始めてるくらいなんだ」
西日の差し入る放課後の教室には、妃芽と嶺生の他にも居残って順路決めに頭を捻らせている生徒たちがいた。嶺生の瞳は橙の光を受けて焦茶色に輝き、その輝きには自分の存在そのものに対する信頼がほの見えた。その混じりけのない光の前に、妃芽は一年のあいだにふくらませた期待を痛烈に裏切られたという憤ろしさを、喉を鳴らして飲み込むしかなかった。
「そう。いいね、いいおばあちゃんだね。素敵な由来の名前なんだね」
「でも、ヒメちゃんみたいな可愛い名前も、やっぱりうらやましいなって思うよ」
目を細めて恥ずかしげに嶺生は笑った。本当はその時からずっと、妃芽は親友として近くにありながら嶺生を恨んできたのだろう。同志と思っていた相手にこっぴどく手をはねのけられた気持ちを溜め込んで来たのだろう。
「私、毅のこと、好きだよ。嶺生の恋人だからとか、そんなのは関係ないよ」
嶺生の問いに、妃芽はそう答える以外に道はない。二年半前の春、恨み言を吐き出せなかったように、今妃芽にはこの答えの外に取れる態度がない。
「ヒメが私の後を追ってたことは知ってる。自分の好きなものを自分の好みで決めるのを怖がって、全部私の好みを真似して選んできたことも知ってる。でもね、そんなの、そういつまでも続かないって思ってたよ。そうやってヒメのこと信じてたから、これまでなにも言わずに来たんだよ」
嶺生は妃芽の言葉に耳を貸さない。妃芽が拘泥する現実を軽々と捨て去って、より広く美しい世界へ飛翔してゆく。そうやって妃芽を愚かで矮小な場所に置き去りにする。
「でも、今回はわけがちがう。服や CD や髪型みたいに、ふたりで一緒のものを選んだりできないんだよ。毅は毅しかいないんだよ。私は本当に毅が好きなんだよ。たったひとりしか居ない毅を私の真似するために取られて、私、今までみたいに黙ってられないよ」
妃芽を睨む嶺生の顔を、ほぼ真横から太陽の光が照らしていた。それはふたりが初めて会話を交わしたあの日の光景に似ている。嶺生を照らす強い陽光のために、妃芽には嶺生が瞳に涙をためているのがはっきりとわかった。妃芽に微笑んだ嶺生と、妃芽を糾弾する嶺生。どちらの彼女も太陽の光を受けて輝かしさに満ちている。その姿に、妃芽はかつても今も目をそらす。
「毅は人間なんだよ。わかってる? 好きなふりで付き合って、振り回して、それでその先どうするの?」
頬を紅潮させて言葉を連ねる嶺生は、会話の始めに見せていた余裕を徐々に失い始めていた。そうさせているのは恋なのだろうと、彼女らしからぬ激情を表す嶺生を見つめながら妃芽は考える。恋とはこの強靭な精神を持つ嶺生のような人間をすら、取り乱させるものなのか。妃芽は無感動に、嶺生の震え始めた声を聞いていた。
そうやって、妃芽は自分の感情の水面が怯え始めるのには気づかないふりをしようとしていた。事態を無関心な第三者の目で観察していたかった。自分は冷静であると装って、嶺生の激しく生々しい感情を心ではなく頭で受け止めたかった。そうでもしなければ自分は壊れてしまう。自分の思いを恐れず確信に満ちて表に現せる嶺生が妃芽には恐ろしい。その確信は、自分への信頼はどこから来るのだろう。その強さが妃芽には恐ろしい。
はあ、と声のない息を嶺生が吐いた。瞬間、彼女の瞳からは涙がこぼれかけ、嶺生はうつむいて素早くその水滴をぬぐいさった。再び顔を上げた嶺生の眼に潤みはもうない。
「ねえ、私は毅が好きだよ。だけど、この先いつか私が毅を好きじゃなくなったら、他の誰かを好きになったら、ヒメはその時どうするの?」
なぜ自分は嶺生から離れられなかったか。嶺生に対する己の感情を自覚してから妃芽は考え続けていた。今も明確な答えはない。それでもうっすらと思うのは、自分は陰に属する人間で、嶺生は陽の場所にいる人間だということだ。光のまっすぐに進んでゆく力に影が焦がれるように嶺生に焦がれ、光の無垢さに闇が己を恥じるように自分を恥じ、暗がりから抜け出せない者が光に身を晒して輝く者を妬むように嶺生を妬んだ。妃芽は嶺生という光をうとみ、恐れながら、離れがたく惹かれていた。
嶺生自身も気づいていないのだろうが、嶺生は激情を表しながらも今なお妃芽へ憐れみの交じる視線を向けている。その眼差しを受けながら妃芽の思考は、嶺生が自分に向けるよりもより大きな想いを毅という男に向けたことがかろうじて保っていた自分の嶺生に対する平衡を失わせたのかもしれないと、ようやくそこまで及んでいた。それと同時に、一度崩れた平衡はもう二度と取り戻せないとも気がついた。
その自覚と共に、ならばせめて妃芽と決別することに罪悪感を覚えさせるようなことはしまいと決意が芽生えた。陰に住み光を浴びられない自分は、この機会を逃せばまた嶺生に寄生して生きることを選ぶだろう。今だ。今、言ってしまえ。
妃芽は出来る限り憎々しげに見えるように、精一杯皮肉げに笑ってみせた。さしもの嶺生も、憐れみよりも怒りを強く感じるだろうというような笑みを浮かべた。
――そうだね、そしたら今度は、その人のことを好きになるかもね。
嶺生を狡猾な暗がりから解放する言葉が、妃芽の声帯を震わせる。