朝が訪れるのはいつかと訊かれた。金曜日の夜のことだ。
駅から自宅までは、歩いて二十分ばかりもかかる。その老人に会ったのは、ようやく寒さに肩をすぼめず歩けるようになった冬の終わりの頃だった。その日は仕事のトラブルが連鎖し、うたたねながら乗った電車のなかで日付が変わった。自宅へ向かう道々では、街灯は間遠に青白く光っていたものの民家の明かりはあらかたが絶え、あたりはなんとも暗かった。だからなおさら、地面ばかりを見つめて黙々と足を運んでいた私は唐突にかけられた声に心臓を激しく飛び上がらせた。
黒いコートに藍色の襟巻きをした老人が、小柄ながらも腰を曲げるでもないしゃんとした立ち姿で、道案内板の脇に立っていた。怪しげな風体ではない。それでも、真夜中も過ぎた時刻に道端で佇んでいるというのは尋常ではない。
「――なんでしょう」
老人の発した問いかけはしっかり耳へ届いていたが、他に返答のしようもなかった。素知らぬふりで歩き去ってしまえばよかったと、そう考え至ったのは驚き立ち止まってしまってからたっぷり数秒が過ぎ去った後だった。
「朝が訪れるのはいつになるかと訊いている」
老人はこちらのおびえた様子にかまうでもなく、貫禄のある声音で同じ問いを繰り返した。
「……日の出の時刻を、お知りになりたいのですか」
「そういうことじゃあない」
私がおそるおそると尋ねたものを、老人は一言のもとに切り捨てた。それはまるきり、不出来な孫をしかる厳格な祖父の口調そのものだった。
「時間にしばられるような真似をするつもりはないよ。ただ、夜が終わり朝が来る、その瞬間はいつかと訊いているんだ」
事態の飲み込めない私は目線を泳がせ、そこでふと、その老人が左手に小ぶりな杖を握っていることに気がついた。老人のてのひらに収まっている柄の部分には、暗がりでもはっきりとわかるほどに凝った意匠の彫り物がしてあった。足元に目をやればそこにあるのはしっとりとした光沢を放つ上品な革靴で、どうやらそれなりの暮らしをしている人物らしいと伺える。
そうとなると、急に気持ちに余裕が生まれた。奇妙な人物であることに変わりはなくとも、そう恐れることもないだろうと気が大きくなる。
「なにをもって朝とするか、ということですか」
肩の力が少し抜けた私は、そう問うてみた。すると老人が、ほんのりと笑った。
「そうだ。夜は暗く朝は明るい。だが、日の光というのは太陽がのぞく前から空を照らすものだ。空が明るみだしたら朝か。人によってはそうだろう。だが、太陽が昇り始めるまでは夜だと言う者もいる。こういうことを理屈で考えるのは、性にあわんし風情がない。さあ、それでは朝が訪れるのはいつのことになるかね」
眉根を寄せて私をしかりつけた老人が、今度は饒舌に語りだした。しかも風情のある回答をしろという。今度は老人の方が、素朴な疑問に胸躍らせるあどけない少年のようだった。その時にはもう、私はこの奇妙な老人との遭遇を楽しんでいた。
「さて、それは難しいことをおっしゃいますね」
「そうだ、難しい。だからこうして尋ねておる」
声をかけられたということは、私は老人の眼鏡に適ったということだろうか。おだてに弱い私はますます彼の示した難題を面白がり、なにか老人を頷かせる答えをしたくなった。だが、それでは一体、夜の終わりと朝の始まりを示すものとはなんだろうか。
私は腕を組み、首をひねり、懸命に頭を働かせた。けれど、仕事で疲れた私の脳はなんの答えも生み出さない。数字とばかりにらみ合っていると、風情などというものは遠ざかるばかりらしい。
それでも、凝り固まった私の思考を助けるひとつの古い記憶があった。それは高校時代、ひとりの友人と夏の山で一晩語り合った思い出だ。寝袋にくるまり星を見た。私たちは受験をひかえたその夏、ふたりきりの天体観測に出かけたのだ。その時に友人が言った言葉が、十数年の時を越えて私を救った。それは――
「それでは、最後の星が消えたときではいかがでしょう」
最後の星が太陽の光に呑まれたのを見た友人が言ったのだ。夜も終わったことだし帰ろうか、と。
私の答えを聞いた老人はほんの少し瞠目してから、言葉を発しないまま、深く満足気に笑ってみせた。