彼女は王国を飼っている。
「クリオではね、透明な雨が降るのよ」
「クリオ」。それが彼女の王国の名だった。聡明な王と美しい妃の統べる奇跡のように満ち足りた国。私の腕を枕に彼女が表すクリオの姿は、そんな子供の空想じみた風だった。精力の尽きた頭で聞いてさえ彼女のする話はおろかなほど無垢に他愛なく、上白糖でできた綿あめのように味わいもなく私の耳に溶けた。
「クリオにある水はこの世界のよりずっと透明なの。雲もね、透明なのよ。だから世界はいつだって青い空に包まれてるの」
語る彼女の視線は私には向かない。瞳孔の指す先は天井で、意識が漂うのは彼女の胸のうちにある十二色のクレヨンセットで描いたような稚拙な世界のなかである。
「あんまり透明な水が雨になって降るとどんな風か、わかる?」
折々に挟まれる質問にも意味はない。私の答えなど待つ気は始めからなく、ささやかな相づちさえ打つ間なく彼女はクリオの叙述を続けて行く。
「クリオで雨の降る日はね、晴天に見える空の下で、皆が一斉に傘を差すのよ」
そう言う彼女は実に幸福そうに笑っている。河辺で拾った滑らかな白石を、真珠より大切に両手に包む子供に似ている。
私は出来る限りの想像力を働かせて、晴天に見える雨空の下、見えない雨に傘を差す人々を思い浮かべる。奇妙で、微笑ましく、そして滑稽な様だと思った。彼女がなぜそうもクリオの世界で楽しげに遊べるのか、彼女は遠く私の理解の及ばない場所にいる。
関係はさほど長くは続かなかった。物珍しさで拾ってみたその石は思いのほか持ち重りがして、私のような軽薄な者には支え得なかった。私は彼女に連絡を取ることをやめた。そうして、彼女の気配がもう完全に私の日々から消え去った後になって、彼女が自分から私へと連絡を寄越すことはとうとう一度としてなかったという事実に気がついたのだった。
昨晩、馴染みの古本屋へ行った。間口の狭い、どこか薄暗さのある、みっちりと本の詰まった背の高い書棚がすれちがうのもやっとの通路を幾本か作っている、通いなれた常連以外は足を踏み入れるのをためらうような店である。
店に入ってすぐ右が店主の座る会計場がある。そしてそのすぐ脇が、新しく仕入れられた本が収められる棚である。隅々まで見知ったその店で、目新しさがあるのはその一角だけだ。私はいつも、まずその棚の前に仁王立ちして最近入った本を眺める。左上から順に目線で背表紙をなで、それから店内を一巡する。お定まりの巡回順路だ。
しかし私は、昨夜その一歩目で足留めをくった。
『クリオの王国』
普段一切の関心を払わないファンタジー小説の並びにその本はあった。彼女のことをまだ覚えていたのかといえば、そうとは答えがたい。けれど、私が彼女の存在を思い出すよりも早くそのタイトルに反応していたのもまた事実だ。ほとんど直感的な意識の動きだった。
棚の前に立ち尽くしたまま私はしばし躊躇った。何を迷っているのかはわからなかった。
タイトルの下に添えられた作者の名前に目を向けると、それは「柏木ちほ」となっていた。似ている、とまた反射的に感じた。記憶にある彼女の名前と、どこか雰囲気の似た文字の並びだと思った。
背表紙を見つめたまま小さく長く息を吸って、その息を吐き出す前に細いハードカバーに手を伸ばした。破れの入った帯が巻かれ、そこにあった短い作品紹介に、私は長く吸った息をそのまま飲み込んだ。
「透明な雨の降るクリオの街で――」
うろたえてあたりを見回すと、怪訝に思う表情を上手に隠した店主と目があった。
ああ、とかええと、とかそんなことを口のなかで呟いてから、私は気づけば店主に尋ねていた。
「この、作者の他の本は……」
ずっと私の行動を注視していたのだろう、店主は私が手にした本を確かめる素振りも見せず、即座に口を開いた。
「その人が出したのはその一冊きりのはずだよ。続きのありそうな終わり方してるんだけどねえ、結局それきり。それだって、もう十年も前の話だしさ」
店主の答えに私は記憶を遡る。深く考えるまでもなく、彼女と関係を持っていたのはそこまで古い話ではない。せいぜいが三年前かその程度のことである。
作者の柏木ちほが彼女であると、頭から信じたわけではない。彼女はただこの本の愛読者であっただけで、名前については単なる偶然に過ぎないのかもしれない。可能性の話で言えば、自分の好きな本の作者の名をもじって名乗ったのだとも考えられる。私が彼女に声をかけたのは深夜の雑多な繁華街で、とっさに本名を出すことを避けた可能性も否定はできない。
しかし、もし彼女が柏木ちほであったとするならば、単純に考えて少なくとも七年、彼女はあの幼い世界と共に生きていたことになる。一冊の本を上梓するほどに、世に認められず完結させることの叶わなかった世界にまだ幸福に浸り切るほどに、彼女はあの王国に囲われて生きていたのだということになるだろう。
手にした本をひっくり返すと、裏表紙に三百円との値札が貼られていた。たった三百円。売れなかった一昔前の絶版本の値段としてはそれも妥当かもしれないけれど、どうしたことか、クリオの話をする彼女の夢見るような瞳が驚くほどまざまざとまぶたの裏に浮かんで、それだけの小銭を惜しむのはあまりにも彼女が哀れに思え、私はその本をカウンターに差し出していた。私の本の趣味を知る店主は、ほんのわずかにだけその細い目を丸くした。
持ち帰ったその本をしかし開く気にはならず、私はダイニングのテーブルに丸一日投げ出したままにしている。
その代わり、自分の語る世界を寝物語に私の腕のなかで次第に目を閉じてゆく彼女の姿を、頭のなかで繰り返し再生し続けている。クリオの話をする彼女は、いつも輝く瞳と生き生きとした口調をしていた。幸せそうな、あまりに幸せそうで可哀そうになる彼女の顔を、私はその体温や匂いと共にいつまでも思い返している。