唯花が恋を告げた時、彼の視界には彼女の腹があった。時間は放課後、場所は人気の去った教室で、彼は翌日の委員集会で配るプリントを仕上げていた。作業を進める彼の視線は手元に落ちたままで、唯花は紙と筆記具が散らばった机をはさんで彼の正面に立ち、たわいのない言葉を彼のつむじに降らせていた。
焦点の定まらない会話はゆるいリズムを不規則に保ったままとりとめがなく、その曖昧さの隙間に落ちた一秒ばかりのしじまは奇妙に強い存在感を放った。それで、彼は考えることもなく顔を上げた。そのさなかに彼女はその告白を行った。彼が唯花の「あなたのこと好きよ私」という声を聞いた時、彼の視界には彼女の腹があった。それは他の少女たちが用いる声音とはあまりにかけ離れ、偽りのように平らかだった。
彼は彼女の腹を見ていた。彼女の腹は薄っぺらく、白いワイシャツにそっと肌の色を透かしていた。
「花?」
彼は唯花を呼んだ。唯花の持つ四文字の姓名のなかから、彼女を呼ばわるのに誰もがあえてこの一字を拾う。訳はないが、しいて理屈をつけるならば「ユカ」という名の人間らしい響きよりはこの呼び名の方がまだしも彼女の本質を隠さない。彼女は決して植物の花に似た魅力やあでやかさなど持たないが、人間の生臭さなどなおさらどこにも纏わずにいる。
彼が狼狽を隠しきれず彼女を凝視し呼びかけても、花はただ微笑するだけだった。瞳に何も宿さない、口角と瞼だけで行われる花の笑みだ。彼女への問いかけからは何も生まれないのだと、もう幾度も知ったことを彼はまた知った。
「じゃあ、花は僕の恋人になろう。僕も君が好きだからね花」
彼は自分の戸惑いを無理やりに嚥下してそう提案した。花は「そうね、それがいいわね」とこともなげに頷いた。花が自分を好きと言い表したことに彼はひっそりとうろたえたけれど、同時にこれはそう当惑するほどのことでもないのだとわかってもいた。
花は好きなものを好くことに迷いなどしない。反対に、それがもう自分にとって必要のないものになったと気がついた時に、なお情愛や執着などという臭い立つ感情でもって腐らせながら手元に置き続けるということもない。食べ物に賞味期限のあるように、あらゆるものには快適に共存できる期限がある。誰もが気づきながら目をつむる事実を、花はそのビードロじみた瞳で反射しながらなんらの抵抗もなしに認めている。
この日から、彼は花の恋人である。その期間はまだ長くはなく、その間にも花はよく彼の名を呼んだ。そして同じだけ、撫子の名も呼んだ。
撫子は花が長く手放さずにいる珍しい存在である。美しく背の高い少女で、ヨーロッパ生まれの女性を母に持ち、その血のためか同い年の彼や花よりも大人びて見える。彼は花と恋人として付き合い始めるまで撫子と直接の関わりを持ったことはなかったが、その存在は知っていた。彼女の異国的佇まいは人目を引く。
時間を共にしているとすぐに気づくことだったが、撫子は極端に口数が少なかった。「言葉って不完全だから、撫子はその不完全さで自分のことを中途半端にするのがいやなのよ」と、花は楽しげに彼に語った。すべてでなければゼロでいいという態度は極端に過ぎるが、撫子の行うその姿勢には、こだわりを貫く愚直さというよりも現実に逆らうことなく自身をそこに添わせる低温の理性が感じられた。
花は撫子を気に入り、彼のこともまた気に入った。花がふたりに向ける愛に差はなかった。花のなかで、彼と撫子はまったく同質の存在であるようだった。花ほど均一であることは人間である彼には不可能だったけれど、それでも彼も撫子を好もしく感じたていたし、それは撫子も同様だった。三人は花の愛に君臨されて共存していた。
今日、最奥に観覧車のそびえる遊園地を彼と撫子は歩く。ふたりを誘い出した花は待ち合わせに現れなかった。遊園地を好く花がふたりを遊園地に誘うのはいつものことで、当日になって花がやって来ないのも、もう幾度もくり返されたことだった。花の気まぐれを彼も撫子も知っていて、その不在さえもがふたりに花らしさを感じさせるイベントのひとつになった。「入りましょう」と撫子が言う。声を発しても彼女の静寂は破られない。撫子は存在そのものを無音に保つ方法を知っているようだった。生きていながら生死に関知しない者のようにふるまう。
彼は遊園地を歩きながら常に撫子の数歩後ろを保った。撫子は振り返らない。少し斜めになった日差しに狭すぎるほどわずかな背中をさらしながら、遊園地をまるで森林をゆくように歩く。点在するアトラクションを乗り物でなくオブジェとして見るところは花と同じだが、撫子は花とちがってそのオブジェらを好いているわけではない。メリーゴーランド、ジェットコースター、コーヒーカップ。花はそれらの造形が好きだが、撫子は退屈そうな顔ですり抜けてゆく。彼と撫子に会話はなかった。まったくこれまでと変わらない日だった。すれ違う男のうちの何人かが撫子に目を止め振り返る。寄り添うようにいる彼に気づき、巡らせた首を戻して歩き去る。彼は自分の存在が果たした影響に満足する。撫子はその男らの無言のやり取りを知らぬ気に歩き続ける。
撫子の動きには起伏がなく、踵の上げ下げ、息の吸い吐き、すべての動きが在るがままに世界に放たれている。それは、花のするのとは違う愛の示しだった。言葉なく、視線なく、撫子は愛を記す。その愛は花のために紡がれるもので、彼が触れることのできる場所に撫子はその愛を置かない。
やがてこの遊園地の目玉アトラクションである観覧車の前に来て、撫子は立ち止まる。それも今まで通りの動きだった。花への愛がその瞬間だけ少し薄らぐ。花が遊園地を好むように、撫子は観覧車の造形を愛している。数歩の遅れを埋めて彼は撫子の横に並ぶ。
彼が観覧車を見上げようとする途中で、撫子は「乗りましょう」と言った。彼の視界には空のなかでゆるやかに廻る鉄骨があった。撫子? と声を発する前に、彼の腕にあたたかく柔らかく、なめらかな感触が滑った。驚きの冷める間もなく、撫子は彼の腕に自分の腕をからませて歩き出した。知っていた一日からの乖離はそこから始まった。見たことのない自発的な行動をする撫子に、彼はぼうとしたまま観覧車の乗り場へ引き連れられた。
係員の男に撫子が声をかけると、動き続けるゴンドラの扉を押さえゴンドラに合わせて歩きながら男は「足元にお気をつけて」と言った。ゴンドラの動きは、つまり観覧車の回転は止まらなかった。そのことを彼は不審に思い、それから彼は、一度として観覧車の止まるところなど見たことはないこと、にも関わらず乗り込む時には静止するのだろうと思っていた自分はこれまで一度も観覧車に乗ったことがなかったのだと、いくつかの現実にいちどきに気がついた。撫子は彼に視線をくれず軽やかにゴンドラに乗り込んだ。ひと一人の体を包んでいることなど忘れたように、撫子のスカートがふわふわと過剰に揺れた。
「観覧車に乗ったのは初めてだわ」
彼に聞かせるわけでもない、それは過去の自分に話しかけるような撫子の口調だった。撫子は彼から目を逸らさなかった。彼もまた撫子を見ていた。
「なぜ乗ったの」
彼の問いに、もちろん撫子は答えなかった。撫子の言葉が独白であったように、彼も撫子にだけ向けてその問いを提示したのではなかった。しかし彼は答えを持たない。撫子を待つしか方法がなかった。言葉の不完全さを克服しようなどという無為な欲求を持たない撫子は、それでも彼の今回の問いには答えをもたらした。巨大な観覧車で、短くはない沈黙の後でもゴンドラはまだ一周の四分の一を過ぎただけの位置にあった。
「この遊園地に入る時、わたしとあなたはカップルだと認識されたわ」
小さくかしげられた首は彼に同意を求めていた。彼は思い出す。この遊園地にはカップル割引がある。軽薄な笑顔を浮かべたチケット売り場の笑顔はほがらかに、通常料金よりいくばくか安くなった金額を提示した。それは、花がいる時には彼と花に適用されるサービスだった。
「そう。わたしでもいいのよ、別に。わたしでも。けれども、花とわたしはカップルではない」
言いながら、撫子は彼の対面から立ち上がった。ゴンドラは小さく、撫子が彼の隣に滑り込むのに半歩も足を踏み出す必要はなかった。撫子の斜め後ろから日が差して、彼女の顔は深みのない空の青を背景に影になった。撫子はその白く細い腕を彼の首筋に伸ばした。無知な幼獣が目前の外敵を警戒するすべを知らないように、彼は一切動くことができなかった。彼を追い詰めた撫子は、彼の唇に自分の唇を寄せた。撫子の近づきすぎた顔は視界に収まりきらず、撫子の長すぎるまつげが目前にあった。息が詰まるほどではなく、けれどきつく首元を押さえられ、彼は自分の鼓動を強く感じた。撫子と自分と、どちらの方がより明瞭にこの脈を感じているのだろうと、彼はそんな思考に脳を委ねた。
撫子は彼と交感を試みているようだったが、その実行われていたのは撫子が彼を奪い去り、彼に撫子を押しつける行為だった。撫子は彼を好いていたが、求めていたのは彼でなく彼の存在になることだった。
「なぜ」
同じ語で違う問いをして、それきり彼は言葉を発する道を失った。撫子もまた黙ったが、その沈黙は彼のものとも、これまでの撫子のものとも違っていた。彼の唇に押しつけたために濡れてぬらぬらと光る口元を歪ませて、撫子は笑んでいた。
「わたし、花のこと好きよ。あなたのことも好き。けれども、ここまでの愛を、唐突に、無残に、切り刻んでしまいたいの。その破壊の瞬間は、とても魅力的だとは思わない?」
撫子の顔がまた彼の視界を埋め、すぐにはみ出て、再び唇が合わさった。ヨーロッパ人の気配を示す撫子の大きな瞳が、おそらく興奮と呼ぶべきもので輝いていた。珍しく欲求を覚えた自分自身に、撫子は昂ぶっているのだろう。なんて愛のない行為だろう、と彼は思う。物と物が触れ合うのとなんら変わらない、それは単なる唇同士の接触に過ぎなかった。
僕を憎むといいよ撫子、と彼は塞がれた唇を通して撫子に語りかける。でもどんなに僕を憎んでも、花は君を手放してなんかくれないと思うね。
撫子の求める破壊は叶わないだろうと彼は考える。今この場に花がいたところで彼女は何も変わらない。撫子が彼を好いているのがわかったと言って、花はそれを喜びさえするだろう。撫子があらわにしたとっておきの刃は、花の花らしさをより明確にする役にしか立たない。
閉じた三人のなかで何もかもが交錯し、しかし花の愛の君臨は揺るがない。花は撫子を包摂する。彼や撫子がどこまで花から離れてもそこは花の環のうちで、ふたりが花の巡りから外れて廻ることはない。