高校三年生は、私が教室という空間を厭わずに過ごすことができた唯一の年だった。級友たちに恵まれた。というよりは、優愛と出会えたことが私を救った。今思い返すと、あの頃の私は自分ひとりでは何一つ始めることが出来ないくせにプライドばかりが強固に高い、同い年の少年少女たちを拗ねたあまりに幼稚な子供だった。
けれど、優愛は私が周囲に張り巡らせていた威嚇の柵を一切感知せず、無防備過ぎるくらいの足取りで私の間合いのなかにすたすたと入ってきた。ひるんでいる間に腕を取られ、クラスの中に引き入れられて、私は高校三年生にして初めて、授業の合間に毎回席を立つ休憩時間、ひとりきりにならない放課後、忘れ物をした時に気軽に「貸して」と頼める交友関係を手に入れた。
稀有な一年に思い出はいくつもきらめいている。それでも特別印象深いのは、夏休みが始まる前日、つまり終業式の日、そして優愛が園芸部を引退する日のことだ。
六月に入った頃から、絵を描いて欲しいと頼まれていた。小さな頃から鉛筆よりもクレヨン、色鉛筆、そして絵筆の方が手に馴染んだ私は、中学校から高校にかけての六年のあいだ美術部に在籍していた。決してうまくはない。うまくはないけれど、とにかく飽きるまでは描いていようかと思っていたら、結局十八歳にまでなっていた。
――花の名前を書いて鉢植えなんかに差しておくプレートにね、飛鳥の絵を入れたいの。元の絵はとっておいて、毎年コピーして使えば、この先ずっと後輩たちに残るじゃない?
自分が部へ贈るものに他人の手を借りようという発想も、それを無邪気に話すところも、いかにも優愛らしかった。いいアイディアだと信じて疑わない目に、私は抗えるはずもなく素直に絵筆を手に取っていた。
――花をね、何かに例えたら素敵なんじゃないかなって。ひまわりなら太陽でしょ、チューリップは色ガラスでできた小さな器で、薔薇はドレスで……。
自分では絵なんて一切描かないくせに、優愛の発想には歯止めがなかった。言われるがまま、私はクーラーなんてない教室の片隅で、盛夏の放課後に黙々と絵具を重ねて行った。優愛はいくらでも思いつきを口にするけれど、私の絵自体には一切口を挟まない。その距離の取り方は、真似しようとしてもできない優愛の天性のものだったのだと思う。
何枚の絵を描いただろうか、今は園芸部で育てていないものまで、「いつかそういうこともあるかもしれないから」と言って優愛は私に描かせた。横長に裁断した画用紙の、左端に花そのものを、右端のその花から優愛が連想したモチーフを。「名前くらいは後輩たちに書かせてあげなくちゃね」と、優愛はその中央はすべて空白のままにさせた。
私には聞き覚えも見覚えもないような花まで幾枚も描き上げた後、優愛が「これが最後の一枚ね」と言って挙げたのはシクラメンだった。優愛がいつか話したことを私は覚えていた。風変わりな形をした花びらを持つその花は冬生まれの優愛の誕生花だった。
――うちの園芸部、シクラメン育ててたっけ?
画用紙に目を落としたままあえて問うてみると、
――育ててたのは私だけだったなあ。今年は誰も手を出さないかもね。
という答えが返ってきた。私は、もしかしたら一度も使われることがないかもしれないシクラメンの札を描き始めた。
――それで、シクラメンは?
右端には何を描けばいいのかと問うと、優愛はそこで困ったように首を傾げた。
――それがねえ、思いつかないのよねえ。
今までするすると案を出して来た優愛が初めて詰まった。そのことに少しは驚いたけれど、あくまで私は絵描きに徹する気でいたので、優愛と一緒に悩むことははなから放棄した。
――いろいろ描いてもらっちゃったからなあ、他のどれとも被らないようにって思うとなかなか思いつかないんだあ。
普段よりさらに間延びした声からは本当に考えがまとまらないでいるのだろうということが伺えた。私は優愛のその逡巡には反応を返さず、図書室から借りてきた植物図鑑を手本に黙って赤いシクラメンの絵を描いていた。もし優愛がどうしてもシクラメンを表すモチーフを思いつかなければこの絵だけは優愛へのプレゼントしようと、心のなかで勝手に決めていた。顔も知らない園芸部の一、二年生たちに渡すよりもその方がよっぽど……と、自分の思いつきをなかば本気で考え、私は視線を筆先に落としたままその提案を優愛に打ち明けようとした。
しかしその直前、声は私たちの後方から凛と響いた。
「シクラメンなら、炎だろう」
教室には私と優愛以外いないと思い込んでいた私はびくりと肩を震わせた。しかし、私と対面する位置に座っていた優愛には彼の姿は始めから視界のなかにあったわけで、「あ、なるほど」などと小声でつぶやきながらのんきに首をかしげていた。
私は振り返った。廊下寄りの列の一番後ろの机に、彼は椅子に横向きに座り壁に背を預けて本を読んでいた。膝の上の広がった、分厚い単行本の表紙は見えない。いつでも本を手放さない男子だった。級友の誰よりも目立たなくて、私は四ヶ月を同じ教室で過ごしながら下の名前を知らないままでいた。
「炎?」
「に、見えるだろう。和名にカガリビバナって言うくらいだし」
その男子の発言に、優愛はまた「あ、そっか、忘れてたなあ」と頷いている。私は優愛に視線を戻した。カガリビバナという名前を私は知らなかった。彼女の視線を捕まえてから問うように首を傾けると、そう、シクラメンってカガリビバナともいうんだよと、先ほどとはうってかわった弾むような声音で早口に言った。そして、渾身のベストアイデアを見つけた満足感もあらわに堂々と言い切った。
「火を描いて欲しいな。寒い寒い冬に、皆があったまれそうな大きい炎」
そんな優愛の満面の笑顔に、私は自分でも出どころのわからないくさくさと癪な気分を一瞬で抱えた。それでも自分を一絵描きであると定めた私は請われるがまま、シクラメンの方を素早く仕上げてから、夜空にうねる炎を描き始めた。ほとんど黒に近い紺色の背景に、赤とオレンジと黄色と白を最大限に細やかに使って、誰が見ても温かみを感じる、誰の心も間近に引き寄せる炎を描いた。
小さな絵だから時間は決して長くはかからなかったのだけれど、微細な炎の揺れに私の意識は絵筆の先端に集中し過ぎて、気づかないうちに息が強く張り詰めていた。最後の一筆のあと数秒をかけて全体のバランスを確かめて、それからそっと絵筆を置いた。思わず大きく喉を震わせて息を吐き出すと、優愛が絵の上に身を乗り出してきた。私は彼女の方に絵の向きを返してやった。すると背後で、今まで物音ひとつ立てなかったあの男子が本を机の上に置き、そのまま近寄ってくる気配がした。
体を半分ねじってその顔を見上げた私の横に彼は立った。彼の視線は私にはなく、机上の私の絵を覗き込んでいた。今度は優愛が、彼に向けて絵の位置を変えた。
「やっぱりうまいな」
感嘆の笑みが込められた彼の声が私の耳をくすぐった。でしょう、と優愛が同じように笑う。そのあまりに誇らしげな声を、ふたりの穏やかで率直な賛嘆を幼稚な私はまだありのままには受け入れられず、ひとりいつまでもふてくされた顔をしていた。それでも、過度な集中によってしびれきった頭の芯には、優愛と彼の声はとろけるような甘美さで果てもなく広がっていった。