<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<feed version="0.3"
	xml:lang="ja"
	xmlns="http://purl.org/atom/ns#"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/">
	<title>沙々雪</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://swd.xtr.jp/" />
	<modified>2019-02-27T01:20:10+00:00</modified>
	<tagline><![CDATA[]]></tagline>
	<generator url="http://serenebach.net/">Serene Bach</generator>
	<entry>
		<title>『サラの鍵』 - 未来への礎に、過去と向き合うということ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://swd.xtr.jp/log/sarah_s_key.html" />
		<id>http://swd.xtr.jp/log/sarah_s_key.html</id>
		<issued>2016-01-10T15:36:47+09:00</issued>
		<modified>2016-01-10T06:36:47Z</modified>
		<summary>　1942年、パリに住んでいたユダヤ人の少女サラは、フランス政権によるユダヤ人一斉検挙《ヴェルディヴ事件》により自宅から連れ出される。とっさに弟を納戸に隠したサラは、収容所から収容所へと移送されながら、...</summary>
		<author>
			<name>swd</name>
		</author>
		<dc:subject>映画 &gt; 洋画</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　1942年、パリに住んでいたユダヤ人の少女サラは、フランス政権によるユダヤ人一斉検挙《ヴェルディヴ事件》により自宅から連れ出される。とっさに弟を納戸に隠したサラは、収容所から収容所へと移送されながら、弟を思い続ける。<br />
　数十年の時が経ち、2009年。パリで働くジャーナリスト・ジュリアは、1942年フランスで起きたヴェルディヴ事件を取材するなかで、義父らの住んでいたアパートが、1942年に入手されていたことを知る。<br />
　1942年と2009年、サラとジュリア。ふたつのフランスとふたりの登場人物が軸になり、映画は進む。<br />
<br />
　この地上で、人の死んだことのない場所はない。だから人が死んだからという理由で、特定の場所を不吉がったり忌避したりするのはナンセンスだと思っていた。しかし、この映画を観ながら考えていたのは、「その死に自分の親族が関わっていたとしても同じように『特別なことではない』といえるのか」ということだった。<br />
　ジュリアは夫の家族を愛しているが、だからこそ、その穏やかで優しい彼らがどういう考えでもってサラたちの一家が連行された後のアパートに住んでいたのか、推測することができない。不安、不信感、ジャーナリストとしての使命感。ジュリアのなかで仕事とプライベートが渾然とする。何に突き動かされているのかも判然としないまま、ジュリアはサラの足跡をがむしゃらに追い続ける。<br />
<br />
　さらに、作中ではジュリアの妊娠が発覚する。高齢での出産にもジュリアは躊躇よりも喜びを抱いているが、彼女の夫・ベルトランは高齢で子を持つことに反対する。<br />
　ここからサラとベルトランの物事に対する態度の違いが明確に見えてくる。<br />
<br />
　サラが連行された直後のアパートに自分の祖父母らが住み始めたことを、「何十年も前のことだ、今更掘り返す必要なんてない、今の自分たちにはもう関係ない」と、自分の家族や心や生活を守るために割り切ることはひとつの方法なのだと思う。ベルトランが選択するのはこちらの考え方だ。ジュリアの高齢での出産に反対し、これ以上家族の過去を詮索するなとジュリアを止めようとする彼女の夫は、現実的で冷静な人なのだと思う。家族や生活を含めた自分自身の世界をまず真っ先に守ろうとする姿勢は、生きるために必要なものだ。<br />
　それを近視眼的だと言うこともできると思う。私自身のなかにも、そう言ってしまいたい気持ちもある。数年前なら、私はベルトランに反感を抱いていただろう。しかし、自分の足元を過去や他人のために譲り渡そうとするやり方を認めない人が確かに必要な時もあるのだ。<br />
<br />
　しかし、それでも、それだけでは世界は前へ進んで行けない。<br />
<br />
　過去を歴史と呼んで、記憶することを諦めて記録として遠ざけることは、過去のひとりひとりを数で数えて名前を知ろうとしないことは、人の尊厳を認めないことと繋がってしまう。自分の生活をないがしろにすることが正しい訳ではない。けれど、自分の身を守るために、少し遠い誰か、少し昔の誰かを自分とは全く無関係だと割り切るやり方は、誰もがお互いに距離を置き、自分も他人も傷つけないためと言いながら、自分の傷にも他人の傷にも無関心である未来を許してしまう。<br />
　そういう、お互いに無関心でいることでそれぞれが自分の身を守る世界は、人が人を救うことができない世界だ。たまたま傷つけられず生きてゆければ、そんな世界でもいいかもしれない。しかし、自分ひとりの力では到底立ち向かえない傷を負った時、その人は誰かに「あなたを大切に思う」と言ってもらわなければいけないのだ。<br />
<br />
　今生きている人間こそもっとも大切にすべきなのだという正論で、過去の人々に封をすることも生き方の一つなのだと思う。<br />
　けれど、ならばなぜ、人は記録を残そうとするのだろう。過去を振り返ろうとするのだろう。それは、「誰かを忘れない」ことで、「私を忘れないでくれ」という祈りを込めるためではないだろうか。<br />
　時間は経ち、歴史は積もり、そのなかで自分も自分以外の誰をも死んでいく。そういう成り立ちのなかで生きていく上で、時間や距離に隔てられた誰かに「あなたを知ろうとすることを諦めない」と約束することは、自分自身の立つ地面を支える力につながってくる。<br />
<br />
　ジュリアがサラの行方を追い求めるのは、自分のそういうやり方を信じてのことだ。そして、そのパートナーであるベルトランが、まず今の自分の生活に立脚して物事を考える人物であることは、象徴的であると言えると思う。<br />
　どちらの生き方も強さであり、もろさである。違う種類の生き方をしている人間同士が寄り添おうとする姿こそが、両輪となって世界を前へと推し進めていくのだと思う。<br />
<br />
　過去を知り切り捨てないこと、現在を見て維持しようとすること。この二つがせめぎあいながら譲り合いながら生きてゆく姿に、迎えるべき未来の姿を見たい。<br />
<blockquote>2010年 | フランス | 111分<br />
原題：Elle s'appelait Sarah<br />
監督：ジル・パケ＝ブランネール<br />
キャスト：クリスティン・スコット・トーマス（ジュリア）、メリュジーヌ・マヤンス（サラ）、フレデリック・ピエロ（ベルトラン）、エイダン・クイン（ウィリアム）<br />
<a href="http://eiga.com/movie/56118/" target="_blank" title="eiga.com">≫ eiga.com</a></blockquote>]]></content>
	</entry>
	<entry>
		<title>『星を継ぐもの』 ジェイムズ・P・ホーガン</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://swd.xtr.jp/log/inherit_the_stars.html" />
		<id>http://swd.xtr.jp/log/inherit_the_stars.html</id>
		<issued>2015-08-08T21:44:23+09:00</issued>
		<modified>2015-08-08T12:44:23Z</modified>
		<summary>　SFを読んだ経験はほとんどない。SFのジャンルなどわからない。それでも、ハードSFとはこういう小説をいうんじゃないかと思ってしまう。　月面にて発見された五万年前の人類の遺体。宇宙服を着こみ、高度な技術装...</summary>
		<author>
			<name>swd</name>
		</author>
		<dc:subject>本 &gt; 海外小説</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　SFを読んだ経験はほとんどない。SFのジャンルなどわからない。それでも、ハードSFとはこういう小説をいうんじゃないかと思ってしまう。<br />
<br />
　月面にて発見された五万年前の人類の遺体。宇宙服を着こみ、高度な技術装備を身につけた〈チャーリー〉は、核兵器の時代を超えて宇宙開拓へ進もうとしていた地球人類に大いなる謎を投げかける。主人公となるヴィクター・ハントを中心に、数多の学者や技術者が〈チャーリー〉の謎に挑み、あらゆる可能性が検討され、仮説が立てられ、検証され、一方は事実と認められ、また一方は却下される。<br />
　奇跡や異能力ではない、人の観測と統計と思考によって紡がれるストーリーは、ストイックであるがこそ読んでいて心地がよい。論理的であること、矛盾を生まないことが至上命令である科学の思考が中心にあることで、安心して気持ちを委ねて没頭できる小説が出来上がる。『星を継ぐもの』の魅力は、ひいてはSFの良さとは、少なくとも今の自分にとってはそこにあるらしい。<br />
<br />
　古い小説であるので、現代の視点で読むと技術描写には多々違和感が残る。作者はコンピュータ販売の職についていたそうで、その分かえって、コンピュータに関連する描写には特に古臭さがつきまとう。書かれた当時にイメージできるもっともリアリティのある未来を書いたのだろうから、なればこそ四十年が経とうとしている現在の技術とは大きくかけ離れてしまっているのも無理はない。<br />
<br />
　しかし、この小説は未来世界を想定した小説であっても、決して未来技術に主眼を置いた小説ではないのだ。例えばこの世界では核融合の放射能は克服され、放射能汚染のない核反応技術が確立している。しかしこの「未来技術」はあくまで設定に過ぎず、ほんのわずかな描写が当てられているのみだ。<br />
　『星を継ぐもの』のテーマは人間存在そのものにあるのだ。人間の持つ技術や文明ではなく、人間という種そのものがテーマにある。だからこそ、この小説は風化を免れ新しい読者を獲得し続けているのではないだろうか。<br />
「五万年前の人類の遺体が、なぜ月で発見されたのか？」<br />
　この問題を追うなかで明らかになってゆく人類のエピソードに胸が震えた。<br />
<br />
　そしてまた、登場人物が魅力的なのだ。『星を継ぐもの』は決して人間ドラマではないのでどの人物であれさほど深堀りされることはないが、だからこそ、当たり前にそこここで生きている我々と地続きの存在に感じられる。<br />
　一番お気に入りなのは、降り積もる矛盾に対して常に新しい視点を開発し続け、立ち止まることを知らない大いなる学者ヴィクター・ハントだったが、他の登場人物たちにもそれぞれにそれぞれの魅力がある。誰に対しても、一対一の人間同士のような感情を抱くことができる。<br />
　これは、科学が主役に据えられている小説だからこそ生むことができる距離感ではないかと思うのだ。<br />
<br />
　『星を継ぐもの』には続編が書かれている。なるべく近いうちに、これらの続編もぜひ読みたいと思う。<br />
<blockquote>原題：Inherit the Stars<br />
訳：池 央耿<br />
初版：1980年5月<br />
原作：1977年<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/448866301X?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=448866301X&adid=1YSVAHRFZX6Q93J35EE8&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></blockquote>]]></content>
	</entry>
	<entry>
		<title>『ガタカ』</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://swd.xtr.jp/log/gattaca.html" />
		<id>http://swd.xtr.jp/log/gattaca.html</id>
		<issued>2015-08-05T13:18:31+09:00</issued>
		<modified>2015-08-05T04:18:31Z</modified>
		<summary>　近未来であるガタカの作品世界では人々は遺伝子操作のもと生まれた「適正者」と自然出産で産まれた「不適正者」に分けられる。人は生まれて数秒後に各種疾病の発症率や推定寿命を測定され、特定の職業には「適正...</summary>
		<author>
			<name>swd</name>
		</author>
		<dc:subject>映画 &gt; 洋画</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　近未来であるガタカの作品世界では人々は遺伝子操作のもと生まれた「適正者」と自然出産で産まれた「不適正者」に分けられる。人は生まれて数秒後に各種疾病の発症率や推定寿命を測定され、特定の職業には「適正者」しか就くことができない。<br />
　自然出産を選んだ両親の元に産まれたヴィンセントは身体能力が低く、心臓に疾患を抱えていた。ヴィンセント出生の時までは遺伝子操作に抵抗感を抱いていた両親だが、ヴィンセントの弟を産む時には遺伝子デザイナーの元を訪れ「適正者」の第二子を持った。<br />
　この時夫婦は、若いうちに死ぬだろうヴィンセントのことを考えていたはずだ。そして「長く側にいてくれる『正式な』子供を」と考えただろう。それはヴィンセントへの愛の多寡ではない。ただ、「ヴィンセントは長く生きられない」という純然たる事実へ対するまっとうな選択だ。<br />
　しかし、ヴィンセントにとって両親のこの選択は自分を打ちのめす意味しかない。あらゆる点で自分を凌ぐ弟と共に育ちながら、ヴィンセントは自分の価値を問い続けたはずだ。弟に劣り、弟より早く死に、未来を夢見る権利を産まれた時から剥奪されていた自分の生の意味を問い続けてヴィンセントは育ったはずだ。<br />
<br />
　私がヴィンセントと同じ立ち場にいたら、と考える。私は死ぬまでただ生きているだろう。両親からの贖罪としての愛を甘受し、弟からの哀れみと優越が混じった視線に気づかないふりをして、庇護されるべき生き物としてただ与えられた生を与えられたがままに受け入れるだろうと思う。息をするだけの生を送るだろう。<br />
<br />
　ヴィンセントは違う。彼のなかには怒りが生まれた。社会への怒り、人々への怒り、そして自分の生そのものに対する怒りだ。社会が科学をもって規定した彼の生を彼は絶対に肯定しない。弟に挑み、定められた生き方に抗い、そして彼は自分自身の望みがそう叫ぶままに宇宙飛行士を目指す。優れた身体と精神を持つ「適正者」だけが許される宇宙の世界へ、ヴィンセントはあらゆる手段を尽くして近づこうとする。<br />
　身分を偽り、遺伝子検査を欺いて、ヴィンセントは自分の望む生を獲得する戦いへ挑む。<br />
<br />
　ズルだろうか？　犯罪に手を染めてまで自分の欲望を貫こうとするヴィンセントは利己的な人物だろうか？<br />
　しかし、「自分に何ができるかを他人に決めさせない」と信じ、貫くヴィンセントの姿は、利己的であればこそ強く人々を揺るがすのだと思う。<br />
<br />
　ヴィンセントに「適正者」の立場を与えるのは、金メダリストとなることを嘱望されながら事故によって両脚の自由を失った水泳選手のユージーンである。ヴィンセントは日々彼の血液や頭髪、尿を使ってユージーンになりすます。<br />
　ユージーンとヴィンセントは互いが互いの似姿である。選ばれるための遺伝子を持たず動く脚を持つヴィンセントと、選ばれる遺伝子を持ち脚を失ったユージーン。二人の間に流れるのは嫉妬であり、うとましさであり、厄介者への唾棄であり、そして「自分ひとりではもう決して社会から認められることのない人間同士である」というたった一つの共通認識が育む友情である。<br />
　社会を欺く犯罪の共犯者という始まりから、遺伝子ですべてを左右する社会への共闘者へと、ふたりの関係は移り変わってゆく。<br />
　そして生活する金を得るために契約を交わしただけだったはずのユージーンを動かしたのは、やはりヴィンセントの強烈な信念なのだ。<br />
<br />
　ヴィンセントは「適正者」の遺伝子を持っていない。それでも日々歩き、走り、トレーニングを重ねるその体はヴィンセントのものだ。彼は新しい宇宙飛行プロジェクトのメンバーに選任される。それを勝ち取ったのは紛れもなく「不適正者で、心臓に疾患を持ち、子供の頃からただの一度も弟に勝つことができなかったヴィンセント」なのだ。<br />
　これ以上に何が必要なのだろう。命そのものを削るようにして宇宙飛行士という夢へ挑むヴィンセントに、あとこれ以上他になにが必要だというのだろう。そしてそれをいったい誰が決めるというのだろう。<br />
<br />
　遺伝子操作というのはSFとして古いテーマだと思う。しかし「自分の限界は自分が決める」というヴィンセントの意思はいつどんな時どんな立場の人間が見ても揺るがない。<br />
　シャープなデザインの近未来世界のイメージとあいまって、時代を選ばない魅力を持つSF映画を観たと思う。<br />
<blockquote>1997年 | アメリカ | 106分<br />
原題：Gattaca<br />
監督：アンドリュー・ニコル<br />
キャスト：イーサン・ホーク（ヴィンセント）、ユマ・サーマン（アイリーン）、ジュード・ロウ（ユージーン）、ローレン・ディーン（アントン）<br />
<a href="http://eiga.com/movie/43350/" target="_blank" title="eiga.com">≫ eiga.com</a><br />
<a href="http://www.nymphomaniac.jp/" target="_blank">≫ 公式サイト</a></blockquote>]]></content>
	</entry>
	<entry>
		<title>第17回　不忍ブックストリートの一箱古本市</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://swd.xtr.jp/log/shinobazu20150503.html" />
		<id>http://swd.xtr.jp/log/shinobazu20150503.html</id>
		<issued>2015-05-04T13:27:07+09:00</issued>
		<modified>2015-05-04T04:27:07Z</modified>
		<summary>　谷中・根津・千駄木、通称〈谷根千〉を舞台に展開される一箱古本市（公式サイト）。全国各地で開催されている一箱古本市の始まりがこの不忍ブックストリートの一箱古本市で、十周年を迎える今年は私にとっては三...</summary>
		<author>
			<name>swd</name>
		</author>
		<dc:subject>その他 &gt; ブックイベント</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　谷中・根津・千駄木、通称〈谷根千〉を舞台に展開される一箱古本市（<a href="http://sbs.yanesen.org/?page_id=3871" target="_blank">公式サイト</a>）。全国各地で開催されている一箱古本市の始まりがこの不忍ブックストリートの一箱古本市で、十周年を迎える今年は私にとっては三年目になる。<br />
　今月引っ越しをしたために改めて自分の積読冊数と向き合うことになり、直前まで行くか行くまいか迷い続け、どちらかというと行かない方向に気持ちは傾き、しかし開始時刻を過ぎてから未練がましく公式サイトで出店主一覧を眺めてみたらやっぱりどうにも気がおさまらなくなってさっさと支度を済ませてずかずかと千駄木に向かっていた。<br />
　過去二年は根津駅で下車してタナカホンヤさんをスタート地点にしていたけれど、今年はスタートが遅れたために全箱を回りきれるかが不安になり、それなら一番行きたい箱から、と、千駄木駅からまず特別養護老人ホーム谷中に向かった。<br />
<br />
<span class="strong big">特別養護老人ホーム谷中</span><br />
<img src="http://swd.xtr.jp/img/img136_01.jpg" alt="特別養護老人ホーム谷中" title="特別養護老人ホーム谷中" width="240" height="180" class="float_img" />　緑に囲まれた前庭の心地よさと昼過ぎのぎらぎらの太陽というギャップにいっそわくわくしながら、まず<span class="em">とみきち屋</span>さんへ向かう。昨年のしのばず一箱古本市でファンになり、しかしその後ほかの古本市での出店タイミングと合うことがなく、一年ぶりに伺う。『野生の棕櫚』（ウィリアム・フォークナー、新潮文庫）と『落穂拾い・犬の生活』（小山 清、ちくま文庫）を購入。お会計後に少し話をしていたら「去年『機会の中の幽霊』を買った方じゃないですか？」と。覚えて頂いていたことに驚きつつ「まだ積読なんです、すみません」と言い訳していたら、「木村敏の『臨床哲学講義』も買っていったでしょう」と。さらに驚きながら「それは読みました、面白かったです」なんて言っていたら、「去年言っていたことを覚えていて。『（買う本を）感覚で選んでる』って言ってたでしょう」というようなことを言われた。体系的な知識がなく自分の勘しか頼りにできない本の選び方は私にとっては弱みに感じている部分なのだけれど、それがとみきち屋さんのような方の記憶に残るような発言であったことが妙に印象に残った。覚えていて下さったことが心から嬉しく、幸先の良いスタートに喜ぶ。<br />
　<span class="em">書肆から羽</span>さんでは『夜の香り』（古井 由吉、福武文庫）を買う。福武文庫が好きで、古井由吉さんの本はいずれ読みたいと思っていて、裏表紙のあらすじに「短篇連作」の言葉に惹かれて、購入。書肆から羽さんは他にも気になる本があり、機会があればまた箱を覗きたい。<br />
<br />
<span class="strong big">COUZT CAFE</span><br />
　ふらふらと箱を覗いていたら、駄々猫さんと出会う。今回は一日開催だから箱数が多くて大変だの、でもその分開催時間が伸びたのはいいの、鎌倉のブックカーニバルに行くの行かないのと慌ただしく話す。「往来堂のレモネードを飲むと本を読むスピードが2倍になるそうですよ！　うそですけど」とそそのかされ、往来堂に着いたらレモネードを飲むと決める。<br />
<br />
<span class="strong big">タナカホンヤ</span><br />
<img src="http://swd.xtr.jp/img/img137_02.jpg" alt="タナカホンヤ" title="タナカホンヤ" width="240" height="180" class="float_img" />　<span class="em">くものす洞</span>さんで物色していたら、他のお客さんと店主さんの「どうして『くものす洞』って名前なんですか？」「単純に、クモが好きなんですよ」という会話を耳にする。箱から、新潮文庫の『ダーシェンカ』『ダーシェンカ　子犬の生活』（カレル・チャペック）を持っているもので同じシリーズの『チャペックの犬と猫のお話』（河出文庫）を即決し、だいぶ迷ってから『日本〈汽水〉紀行』（畠山 重篤、文藝春秋）も購入することにする。この本と直接の関係はないけれど昨年行った三浦半島の小網代の森がとても気持ちのよい場所だったので、森と海が出会う場所に関する本というのが気にかかった。他にも何冊か気になる本があったけれどこの2冊に絞ってお会計。「私もクモが好きで」、と店主さんに話してみたら、「『たくさんのふしぎ』っていう月刊の本（？）に最近クモの話があって、よかったですよ」と教えて頂く。<br />
<br />
<span class="strong big">根津教会</span><br />
<img src="http://swd.xtr.jp/img/img138_03.jpg" alt="根津教会" title="根津教会" width="240" height="180" class="float_img" />　昨年と同じような教会前の道路にテーブルが広げられている姿を想像していたら、道路には何もなくて驚いた。今年は中庭で開催とのこと。遮るもののないアスファルトの上で本を物色するのは暑くて大変だった記憶があったので「中庭かあ、ありがたいなあ」と呑気に考えていたけれど、いざ中庭に入ってみるとかなり手狭な感。大きな鞄を持って入るのが申し訳ない、と思いつつずいずい進む。5月16日に逗子で開催される「海辺の本市」、5月17日に千葉県柏市で開催される「本まっち柏」のチラシを受け取る。<br />
　<span class="em">竜蹄堂</span>さんで惹かれるままに『閉じた本』（ギルバート・アデア、創元推理文庫）、『冬の灯台が語るとき』（ヨハン・テオリン、ハヤカワ・ポケット・ミステリ）を手に持っていたら「両方読みましたけど、面白いですよ」と店主さんに背中を押して頂く。「海外小説好きな人なら面白いと思います」というお言葉に心のなかで（ごめんなさいろくに海外小説読んでないんです、でもこれから読むのでゆるしてください）と勝手に言い訳をつぶやく。<br />
<br />
<span class="strong big">往来堂書店</span><br />
<img src="http://swd.xtr.jp/img/img139_04.jpg" alt="往来堂書店" title="往来堂書店" width="240" height="180" class="float_img" />　<span class="em">嫌記箱</span>さんはとみきち屋さんと並んで「目を皿のようにして」覗いてしまう箱。ほとんどの本が気になるので絞り込むのに苦労する。「寄宿生」という言葉と目次の面白さ（各章の書き出しがそのまま目次になっている）に『寄宿生テルレスの混乱』（ムージル、光文社古典新訳文庫）を決め、Twitterのbotで知ってからずっと気になっていた詩人・八木重吉の『八木重吉全詩集』（ちくま文庫）の一巻、二巻を見つける。値段を確かめて若干ひるんだけれど、最近詩を読んでいないし、と、自分を鼓舞して購入。<br />
　レモネードを買って飲みながら次のスポットに向かう。強めの酸味とハーブの味がとても美味しい。<br />
<br />
<span class="strong big">コシヅカハム</span><br />
<img src="http://swd.xtr.jp/img/img140_05.jpg" alt="コシヅカハム" title="コシヅカハム" width="240" height="180" class="float_img" />　<span class="em">悪い奴ほどよくWる</span>さんで『兎』（金井 美恵子、集英社文庫）を見つける。「映画好きですか？」と唐突に話しかけられ、店主さんの映画度（？）の高さをTwitterで知っている身としては「好きです」と言い切るのが憚られもぐもぐ言っていたら、「友達が作っていて、無料なのでよかったら」と『名画座かんぺ』というフリーペーパーをすすめられた。ありがたく頂く。お会計の時に『兎』を指して「うさぎがすきで」と言ったら、「（動物の）うさぎが？」と聞き返されて、慌てて「いや、金井美恵子さんの『兎』が好きなんです」と訂正。<br />
<br />
<span class="strong big">旧安田楠雄邸</span><br />
<img src="http://swd.xtr.jp/img/img141_06.jpg" alt="旧安田楠雄邸" title="旧安田楠雄邸" width="240" height="180" class="float_img" />　この場所の心地よさはいつ訪れてもピカイチだ、と思う。しかしいつでも本にばかり気を取られているのでその心地よさをきちんと享受できたためしはない。<br />
　<span class="em">NITO BOOKS</span>さんで『ピーターとペーターの狭間で』（青山 南、ちくま文庫）を買う。一度は目が滑ったものの、もう一度箱のなかを見なおしていたらなんとはなしに気にかかり、手にとったみたら「翻訳うらばなし」と帯にあったので、「なるほどだから『ピーターとペーター』か」と納得してそのまま購入。<br />
<br />
<span class="strong big">古書ほうろう</span><br />
<img src="http://swd.xtr.jp/img/img142_07.jpg" alt="古書ほうろう" title="古書ほうろう" width="240" height="180" class="float_img" />　『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』（石井 好子、暮しの手帖社）の単行本を持っているのでいつか『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』も単行本で欲しいと思っていて、だから今日も他の箱で文庫を見かけても買わずにいたのだけれど、<span class="em">こいぬ書房</span>さんでこの文庫2冊が並んでいるのを目にしたら辛抱できず買ってしまった。文庫という本のかたちが好きなので。『東京の〜』も思わず一緒に。単行本版もまだ読んでないのに。<br />
　ここで最後のスタンプを押して頂いたら、助っ人さんおふたりにものすごく申し訳なさそうに「すみません、スタンプラリー完走の景品がもう品切れで……」と謝られてしまった。時刻は15時頃だったか。今年の景品は手裏剣のかたちのクッキー（不忍ブックストリートのマスコットキャラクターの忍者・しのばずくんにちなんで）だったそうで、食べたかったなあとしゅんとしながら大丈夫です、大丈夫です、と言い古書ほうろうさんのなかに入る。<br />
<img src="http://swd.xtr.jp/img/img143_08.jpg" alt="古書ほうろう" title="古書ほうろう" width="240" height="180" class="float_img" />　実は今回初めて古書ほうろうさんの店内の一番奥まで入った。毎年古書ほうろうさんをゴールにしているので、ここにたどり着く頃にはこの広さの古書店をじっくり見る体力は残っていない。買った本で体積もふくれているので、棚の間が狭めの古書ほうろうさんのなかに入るのは他のお客さんに気後れもする。今年は「買う冊数を控えめに」を念頭に置いて買っていたので冊数は例年の半分ほどで、まだ体力と身幅に余裕があった。つらつらと棚を眺めていたら『ノスタルギガンテス』（寮 美千子、パロル舎）を見つけて今日一番の速さで手を伸ばした。大好きな本で、読んで欲しい人がいたのでその人に譲ったのが二、三年前。いつか見かけたら再購入しようと思っていた。<br />
　引き続き古書ほうろうさんの店内を巡っていたら入り口の方から「スタンプラリーを完走された方で、景品が品切れになったと言われた方いらっしゃいませんか〜」と声が聞こえてきた。急遽、前年の景品の在庫などを集めて完走者に配ってくれるという。ありがたく列に並んで、ノートやコースターなどのセットを受け取った。使う使わないは別にして、最後の〆にこういう「ご褒美」があるのはうれしい。<br />
<br />
　すべての箱を巡り終わって「コーヒーを飲んで落ち着きたい」と喫茶店を探したのだけれど、どうも間が悪く「ここがいい」と思える店になかなか行き当たらない。30分以上不忍通りを歩きまわり、歩く間にどんどん空腹になってきたので「せっかくだから行ったことのないお店に」というこだわりを捨てて昨年もおじゃました甘味屋・芋甚に行ってアベックみつまめを食べる（アベックはバニラアイスと小倉アイスが入っている）（どうでもいいが、それなりに迷って決めた注文なのに去年も同じものを食べていた。思考回路が変わっていない）。<br />
　多少お腹が落ち着いたところで、改めてコーヒーを求めて不忍ブックストリートMAPを見つめ、みのりカフェを目指した。ブレンドコーヒーとケーキを頼んだのだけど、ケーキもさることながらコーヒーがとにかく美味かった。カタカナよりも漢字で「珈琲」と書きたくなる絶妙に好みな味。買った本を整理し、『チャペックの犬と猫のお話』をめくりながら18時まで過ごし、お会計の時つい言わずにおれず「珈琲すっごく美味しかったです」と言い残して根津駅から帰路についた。<br />
<br />
<img src="http://swd.xtr.jp/img/img144_09.jpg" width="240" height="180" class="float_img" />　今年は貸はらっぱ音地に箱がなかったので、日暮里駅方面には行かなかった（もちろん箱があろうとなかろうと行きたければ行けばいいのだけど、本という餌なしに歩いてゆく元気が私にはない）。初音の森のあたりの緑の清々しさがとても好きなので少し寂しさを感じた。しかし、本を抱えつつ無理なく歩ける範囲をと考えると今回のエリアの小ぶりさはかなりありがたくもある。むずかしい。<br />
　個人的に印象深かったのは、箱を廻るにあたって一度も不忍ブックストリートMAPを開かなかったということ。スタンプラリーの略地図だけで箱を巡れる程度には谷根千の土地勘がついたのだなあと悦に入る。<br />
<br />
（お気づきの方がいるかはわかりませんが、昨年のしのばず一箱古本市の感想は半分しか書いてません。5月3日の分を書いてません。4月27日に比べて5月3日が楽しくなかったとかそんなことはもちろんないです。反省して今年は当日中に感想を文字に起こしました）]]></content>
	</entry>
	<entry>
		<title>ピックアップ10本　2014年</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://swd.xtr.jp/log/10films_2014.html" />
		<id>http://swd.xtr.jp/log/10films_2014.html</id>
		<issued>2015-02-21T20:05:10+09:00</issued>
		<modified>2015-02-21T11:05:10Z</modified>
		<summary>2013年に観た映画のなかから特に印象的だったものを10本ピックアップしました。明確な順位付けをしたわけではありませんが、上の方がより存在の大きな映画です。番号が ピンク のものはフィクション、緑 のものは...</summary>
		<author>
			<name>swd</name>
		</author>
		<dc:subject>映画 &gt; ピックアップ</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<div id="pickup"><span class="fspacer">2013</span>年に観た映画のなかから特に印象的だったものを<span class="fspace">10</span>本ピックアップしました。<br />
明確な順位付けをしたわけではありませんが、上の方がより存在の大きな映画です。<br />
番号が <span class="film strong">ピンク</span> のものはフィクション、<span class="film_doc strong">緑</span> のものはドキュメンタリーです。<br /><br />

<div class="border"></div>

<span class="no film">01</span>『スプリング・フィーバー』<div class="body">ゲイの男三人を軸に紡がれ、途切れ、しかし果てなく描かれる鬱屈した世界。監督の人間を見つめる視線の容赦のなさに戦慄し、しかし期待したり希望を背負わせようとしないことは優しさであるとも感じる。</div><div class="link"><a href="http://eiga.com/movie/55045/" target="_blank">≫ eiga.com</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no film">02</span>『パリ、ただよう花』<div class="body">恋人を追って北京からパリへ来た中国人女性の花。恋人に振られ、行きずりの男とレイプまがいのセックスをし、そのままその男と恋人同士になる。愛に飢えながらあまりに容易く体を明け渡して愛をぶち壊す。彷徨する花はどこにも辿り着かないまま映画は終わる。</div><div class="link"><a href="http://eiga.com/movie/78022/" target="_blank">≫ eiga.com</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no film">03</span>『チョコレートドーナツ』<div class="body">1979年のカリフォルニア、ダウン症の少年マルコとゲイカップルのルディとポールが出会う。それぞれに欠けたものをお互いが慈愛をもって埋め合う三人の関係が優しく、そして時代がもたらす残酷な結末に胸がえぐられる。監督来日のタイミングで映画館に足を運べた幸運にも恵まれた。</div><div class="link"><a href="http://eiga.com/movie/79764/" target="_blank">≫ eiga.com</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no film">04</span>『<a href="http://swd.xtr.jp/log/nymphomaniac.html">ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2</a>』<div class="body">ニンフォマニアのジョーの生涯を八章に分けて綴じ込んだ前後編の映画。コミカルで、滑稽で、憐れむにはあまりに愚かなジョーの生涯。そして、そんなジョーをどう見るかは、観客の自分自身への態度の写し鏡でもある。</div><div class="link"><a href="http://eiga.com/movie/80589/" target="_blank" title="eiga.com">≫ eiga.com(Vol.1)</a> <a href="http://eiga.com/movie/80590/" target="_blank" title="eiga.com">(Vol.2)</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no film">05</span>『思い出のマーニー』<div class="body">ぜんそくの治療のため海辺の町へやってきた少女・アンナ。アンナはその町で不思議な少女マーニーと出会い、交流を重ねてゆく。子供時代のあまりに多感で息の詰まる頃が優しくやわらかく描かれている。</div><div class="link"><a href="http://eiga.com/movie/79668/" target="_blank">≫ eiga.com</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no film_doc">06</span>『聖者たちの食卓』<div class="body">毎日十万食のカレーが作られ、訪れる人々に無償で振る舞われるインドの黄金寺院。その一日を映したドキュメンタリー。階級も宗教も人種を関係なく皆で床に座って食べる食堂、調理や給仕はすべてボランティアのシク教信者によって進行する。途方もないスケールに頭をくらくらとさせ、混沌として見えるのに実は整然と働く人々の純粋なうつくしさに価値観を揺さぶられた。
</div><div class="link"><a href="http://eiga.com/movie/77589/" target="_blank">≫ eiga.com</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no film_doc">07</span>『自由と壁とヒップホップ』<div class="body">パレスチナのヒップホップアーティストを追うドキュメンタリー。差別、占領、貧困。イスラエル領内で生まれた、自分たちの抑圧された現状を語る言葉を音楽で伝える若いアーティストたち。分離壁によって隔てられ同じステージでライブをすることさえ困難な状況で、人々に言葉を伝え続ける彼ら。</div><div class="link"><a href="http://eiga.com/movie/79240/" target="_blank">≫ eiga.com</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no film">08</span>『インターステラー』<div class="body">桁外れに壮大な映像で描かれる近未来SF。ストーリーがどうこうはもはやほとんど意味がなく、ノーラン監督が映像にするその圧倒的な世界観に純粋に浸る。うつくしいもの、大きなものは、もうただそれだけで単純に胸を打つ。</div><div class="link"><a href="http://eiga.com/movie/78321/" target="_blank">≫ eiga.com</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no film_doc">09</span>『マージナル＝ジャカルタ・パンク　２０１４年春版』<div class="body">インドネシアで貧困の底からパンク音楽で人々に政治を伝えようとするバンド・マージナル。ストリートチルドレンの支援も行いながら、経験を共有することで人々の選択肢を増やそうとする。上映後来日したメンバーのミニライブも聴けた。</div><div class="link"><a href="http://eiga.com/movie/80280/" target="_blank">≫ eiga.com</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no film">10</span>『<a href="http://swd.xtr.jp/log/gravity.html">ゼロ・グラビティ</a>』<div class="body">3D映像の魅力をうまく引き出した佳作。宇宙事故に遭い地球への帰還を目指すひとりの宇宙飛行士を静かに追う。ストーリーでなく映像が映画一本を牽引するのを見て、これからさらに映画の幅が広がっていくことを実感させてくれた。</div><div class="link"><a href="http://eiga.com/movie/57690/" target="_blank">≫ eiga.com</a></div>

<div class="border"></div><br />
　『ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2』を一本の映画としてカウントすると、2014年は30本の映画を観ました。月2.5本、仕事が忙しくなったなか多くはないけれど決して悪くもない、とかろうじて自己弁護できる数字かなと思います。<br /><br />

　トップ2を占めたのはロウ・イエ監督の作品で、この監督と出会えたことが2014年最大の収獲でした。ひりつくようでいて、現実的過ぎて絶望することさえできない、引き込まれる映画を撮る監督だと思います。新作の『二重生活』も観に行きたいところです。<br /><br />

　2013年に続いて、ドキュメンタリーを観、渋谷アップリンクに通う年でした。新しいジャンルを開拓するという感じはなく、むしろ「観たい」と思いつつ映画館へ足を運ぶ時間を捻出できない年であったなと思います。今年はどうにか……と言いたいところですが、正直なところ目処は立ちません。<br /><br />

　上に挙げた以外に印象深かった映画としては、『Call Me Kuchu』、『LIFE!』、『ジャージー・ボーイズ』、『ダブリンの時計職人』など。<br />
　2014年は忙しさのために大手シネコンに偏りがちな年でしたが、2015年はできればもう少し小さな映画館にも出かけていけると良いなと思います。
</div>]]></content>
	</entry>
	<entry>
		<title>ピックアップ10冊　2014年</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://swd.xtr.jp/log/10books_2014.html" />
		<id>http://swd.xtr.jp/log/10books_2014.html</id>
		<issued>2015-02-17T23:09:01+09:00</issued>
		<modified>2015-02-17T14:09:01Z</modified>
		<summary>2014年に読んだ本のなかから特に印象的だったものを10冊ピックアップしました。明確な順位付けをしたわけではありませんが、おおむね上から順により存在の大きい本です。番号が ピンク のものは小説、緑 のものは...</summary>
		<author>
			<name>swd</name>
		</author>
		<dc:subject>本 &gt; ピックアップ</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<div id="pickup">2014年に読んだ本のなかから特に印象的だったものを10冊ピックアップしました。<br />
明確な順位付けをしたわけではありませんが、おおむね上から順により存在の大きい本です。<br />
番号が <span class="novel strong">ピンク</span> のものは小説、<span class="non_novel strong">緑</span> のものは小説以外です。<br />
タイトルから張っているリンクは読後に書いた感想記事に飛びます。<br /><br />

<div class="border"></div>

<span class="no non_novel">01</span>『<a href="http://swd.xtr.jp/log/happonashinochou.html">八本脚の蝶</a>』 二階堂 奥歯<div class="body">今もウェブに残る二階堂奥歯さんの日記の書籍化。読後しばらくのあいだ頭を占領して離さず、四ヶ月が経った今もまだ私の脳の一部を蝕んでいる。毎年一番に挙げる本は迷うけれど、2014年は他に選びようがなかった。</div><div class="link"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4591090906?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4591090906&adid=0G0TDPCMVG12CBHMNSPZ&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no novel">02</span>『死者の奢り・飼育』 大江 健三郎<div class="body">耽美でうつくしく、おぞましくも人間的で滑稽。「大江健三郎」という名前を知っているだけで「読む本」の対象には入れていなかった自分の愚かさを笑いつつ、耽溺するように読んだ。</div><div class="link"><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4101126011/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4101126011&linkCode=as2&tag=woshuku-22" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no novel">03</span>『海と毒薬』 遠藤 周作<div class="body">戦中の実話を題材としたという一作。読みやすい文体に引き入れられるがままにタイトル通り毒薬を服んだ。良い小説というのは押しなべて毒であると思うけれど、この毒がどれほどの作用を自身の精神に及ぼすのかわからないまま読了。</div><div class="link"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4101123020?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4101123020&adid=106BPKTMMBC5JH82EGQ7&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no novel">04</span>『エレンディラ』 ガルシア=マルケス<div class="body">訃報に触れて積読から慌てて手に取った。現実と地続きのめくるめく異世界に足を踏み入れて、その目眩に体も精神もなにもかもいっしょくたにぐちゃぐちゃにとろかされた気分。長篇を読まねば、と思う。</div><div class="link"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4480022775?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4480022775&adid=09FVF61M7R2SXX74Q1NZ&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no non_novel">05</span>『室内の都市 36の部屋の物語』 海野 弘<div class="body">「部屋」というのはおかしなもので、閉じた空間であるにもかかわらずそこは宇宙よりも広く全てが存在し得る。魅力的である。溢れ出る知識でもって様々な小説を部屋という視点で行き来する濃密な論述集。</div><div class="link"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/479520828X?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=479520828X&adid=1TNV46N7XJNJX9CE4CFX&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no non_novel">06</span>『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録― / 』 NHK「東海村臨界事故」取材班<div class="body">1999年に起きた東海村臨界事故のルポ。淡々と積み上げられていく事実によって、「被曝で死ぬ」とはどういうことなのかが書かれる。原子力発電を考えるにあたって、必読の書のひとつと思う。</div><div class="link"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4101295514?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4101295514&adid=1YAVR1KHMZXRMH04NZ4F&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no non_novel">07</span>『臨床哲学講義』 木村 敏<div class="body">統合失調症、内因性鬱病、躁病を巡りつつ、人間の心に起こる病理について記述する。まったく造詣のない分野につき、著者の論が専門の分野においてどういった位置にあるのかはわからないけれど、個人的にとても興味深くのめり込んで読んだ。</div><div class="link"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4422115308?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4422115308&adid=05RDSE2WFXS2WR6T8HZQ&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no non_novel">08</span>『ハンナ・アーレント　「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』 矢野 久美子<div class="body">ユダヤ系の家系に生まれ、ナチスの時代をアメリカに亡命して生き延びたハンナ・アーレントの生涯を網羅的に書いたもの。『人間の条件』を読むにあたって一通りの予備知識をと手に取ったけれど、政治にうとい自分にはこの一冊でもだいぶお腹いっぱいに。</div><div class="link"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4121022572?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4121022572&adid=0NFVGFKQ5YRRNZNE436W&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no novel">09</span>『飲食男女　おいしい女たち』 久世 光彦<div class="body">男と女という線引きは唾棄して憚らないが、この世には男と女がいるというのもまた真理だ。随筆のような体裁の小説はどこまでも実話のように思えてならず、結局のところ無縁ではいられない世間の男女というものをなぜかすんなりと胸に受け入れる気分になる。これは女性としてこの世を生きる人の方がきちんと味わえる本だと個人的には思う。</div><div class="link"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4167581051?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4167581051&adid=0TF0N4QNXWB05F5RXHD0&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></div>

<div class="border"></div>

<span class="no non_novel">10</span>『萩原朔太郎詩集』 萩原 朔太郎<div class="body">近代詩人の作品を擬人化したコミック『月に吠えらんねえ』（<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4063879704?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4063879704&adid=0GGZYAM2K9V5VN1DE9WN&" target="_blank">Amazon.co.jp</a>）を読んで、これで詩集を読まなきゃ嘘だろうと手に取った。朗らかなもののなかにおぞましさを感じる感性がとても鋭い。高村光太郎、室生犀星についで好きな詩人のひとりとなった。</div><div class="link"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4003106210?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4003106210&adid=1E7YYY5GM73KJ394GZYE&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></div>

<div class="border"></div><br />
　ツイッターのTLで「その年の振り返りというのは年末にやるものであるらしい」と知ったのでこの記事は2014年末にまとめる気でいたのですが、蓋を開いてみればなんと2月なかばを越えての更新となりました。<br /><br />

　2014年は43冊の本を読みました。毎年飽きもせず「今年は少ない」「来年こそはもっと冊数を」と言っていますが、いい加減腹を括ることにしました。私の読書量の限界はこのあたりです。年間50冊に届いたらいいな、でも無理かな、くらいです（これでも2014年が43冊だったことを思えば希望的観測な面が大きい数字です）。自分はもう「読書家」とは言えない人間なのだなと思います。<br /><br />

　そんななかでも良い本に出会えているのは、社交辞令やおべっかではなく、推薦のページでちらほらと作品をおすすめして下さる方がいるおかげだと思っています。深い感謝を捧げたいと思います。本当にありがとうございました。<br /><br />

　こうして振り返ってみると、2014年は「今更こんな本を」と思うような古く偉大な作品を読む機会の多い年であったように思います。大江健三郎、遠藤周作、ガルシア=マルケス。<br />
　最近頭のなかを巡っているのは、「長く読み継がれている作品はもちろん良作であるのだから漏らさず読みたい」「でもそれでは私の読書が私の読書である必然がなくなるのでは？」という逡巡です。この十年、「なるべく知らない作者を」「なるべく新しい分野を」とすそ野を広げることを第一の旨として本を読んできました。しかしやはり、過去から今に残る作品に触れることで得るものはとても大きい。すそ野を広げることばかりで高峰を見ることをおろそかにしているのでは？　という自身への疑問が最近頭をもたげます。<br />
　限られた時間のなかで何を読むのかというのはもう何年も考え続けてきたつもりの問いですが、この問いに対する姿勢を改めて見極めるタイミングが来ているように思います。あるいは、「自分の好きな本を読む」というたった一つの原点に帰るタイミングであるかもしれない、という思いもあります。しかしまだ答えが出ているわけではない（もちろんその「答え」も「現時点での一時的な答え」以上ではありえないわけですが）ので、しばらくはこんなことを考えながら本を読むことになりそうです。<br />
　そんな小難しいこと考える必要あるの？　なんて思いもありますが、あるんです。あるから私はこの問いをずっと手放さずに考え続けているのです。<br /><br />

　2014年に読んだ本で、上記十冊以外に印象深かったのは『<a href="http://swd.xtr.jp/log/pen.html">ペン</a>』（引間 徹）、『あしたから出版社』（島田 潤一郎）、『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』（河北新報社）など。<br />
　2015年もまた良い本と出会えるよう、そして何より積読をガツンと減らせるよう、そして「読まない」「（感想を）書かない」自分とどう対峙するかを考える年にしようと考えています。<br /><br />

　ところで、この記事を作成するにあたって2013年の10冊を見返したら、同じ十番目に『萩原朔太郎詩集』（萩原 朔太郎）と『室生犀星詩集』（室生 犀星）が並んだことにちょっとくすりとしました。『月に吠えらんねえ』（<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4063879704?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4063879704&adid=0GGZYAM2K9V5VN1DE9WN&" target="_blank">Amazon.co.jp</a>）は本当にとても面白いコミックなので、皆様ぜひ。そういえば、コミックの感想も書いてみたいなと考えています。
</div>]]></content>
	</entry>
	<entry>
		<title>『ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2』</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://swd.xtr.jp/log/nymphomaniac.html" />
		<id>http://swd.xtr.jp/log/nymphomaniac.html</id>
		<issued>2014-11-12T14:46:49+09:00</issued>
		<modified>2014-11-12T05:46:49Z</modified>
		<summary>　トリアー監督はリアリストである、と思う。作品を観るのは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』以来で、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はまだまだ映画経験の浅かった高校生の私にとってほとんど初めての娯楽品ではな...</summary>
		<author>
			<name>swd</name>
		</author>
		<dc:subject>映画 &gt; 洋画</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　トリアー監督はリアリストである、と思う。作品を観るのは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』以来で、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はまだまだ映画経験の浅かった高校生の私にとってほとんど初めての娯楽品ではない映画作品だった。ぼろぼろに泣いたが、あれを悲劇だと感じたあの頃の私はまだ世界を知らなかったのだなと思う。<br />
　あれから十年以上が経って、『ニンフォマニアック』を観た。雪の降る夜、薄汚れた路地裏でジョーが倒れている。年齢はおそらく四十代、流血し、気を失い、細い体を街路に横たえている。近所のグロサリーに買い物に出た初老のユダヤ人セリグマンがジョーを見つけ、救急車も警察も呼ぶなという彼女を自宅へ連れて帰る。パジャマを貸され、ソーサー付きのカップでミルクティを出されたジョーは、セリグマンに尋ねられて自身の来歴を語り始める。<br />
　「自分の性器に気がついたのは2歳の頃だった」と始まる彼女の人生は、性と共にあり続けたものだった。<br />
　全八章、240分の上映時間がVol.1、Vol.2の二編に分かれている。長いが、できれば続けて観ることを勧めたい。これは二本の映画ではなく、Vol.1/Vol.2合わせて一本の映画だ。<br />
<br />
　自らをニンフォマニアであるとジョーは言う。そして自らのセクシュアリティを「セックス依存症」という「病気」として治療されることを拒絶する。多数派の人々と性の有り様は異なるが病気ではない、欲望によってセックスをするのであって依存心や欠乏感からではないと宣言する。<br />
　なるほど、と思う。<br />
　彼女はある視点からは異常者かもしれないし、その異常性によって他人を犠牲にしながら生きてきた。それは事実だし、何よりジョー自身がそれを強く自覚している。しかし、そういう人々はどうしても存在してしまうのだ。ジョーがニンフォマニアであるのは彼女自身の責任ではない。そう生まれついただけの話だ。<br />
<br />
　この映画を観て、ニンフォマニアが一本の映画の主題として成立しうる理由を考えていた。たとえば大量殺人を犯したサイコパスも映画の主題足りえる。これは「殺人」という最も取り返しのつかない行為が量的に異常である（大量である）こと、その行為自体に異常性（遺体の装飾や食人）が伴うことがその理由だろうと思う。<br />
　異常な人間性はニンフォマニアだけではない。ではなぜジョーが一本の映画の主人公として成立するのか。たとえばジョーがすれ違う多くの人々のなかにはペドフィリアも登場するが、彼とジョーの違いは何か。<br />
<br />
　ペドフィリアは幼児を性的に扱う故に唾棄される。ニンフォマニアは社会的秩序を乱す故に唾棄される。両者の、特にペドフィリアと“女性の”ニンフォマニアの違いの最たる部分は、「後者は唾棄されつつも利用される」という一点であると思う。<br />
　ペドフィリアにペドフィリアであることを推奨する者はいない。徹底的に排除される。女性がニンフォマニアである場合も（本当はニンフォマニアでなくとも単に性的に自主的であるだけでもだが）、彼女は社会的に批難される。そういう女性を罵倒する言葉の多さには目を見張る。<br />
　が、同時に、彼女は男から利用され続ける。性的に自主的である女を罵倒しながら自分に対してだけ性を開けと言う男は多い（『ニンフォマニアック』ではジェロームという男がとても明快にこの人格を示している）。<br />
　罵倒されつつも、そう在ることを世界の半分から推奨される。この他者からの徹底的に利己的なダブルスタンダードにさらされ続けることが、女性のニンフォマニアが他の異常性を持つ人々と決定的に異なる点である。<br />
<br />
　ジョーは利口な女性ではないが、自己に対して自覚的である。理性によって欲望をコントロールしないどうしようもない人間であることは否定のしようもないが、彼女の自己への自覚性は欠点を補って余りある美徳だと個人的には思う。<br />
　そして、ジョーの話を聞く（あえて聴くとは書くまい）セリグマンは、演出的過ぎるほどにジョーと対照的な人間である。理性的であり、知的である。しかし内省を知らず自己に無自覚である。<br />
<br />
　ジョーは話しセリグマンは話を聞くが、二人の間に対話はない。平行線でさえない。セリグマンはジョーの話を理解できておらず、理解できていないことさえ理解できていないのだから。<br />
　『ニンフォマニアック』は救いのある物語である。「現実をこれほどきちんと認識できているトリアー監督という人物がこの世界に存在する」という事実を知ることができる一点をもって、救いのある物語である。<br />
　『ニンフォマニアック』は悲劇ではない。ユーモアにはあふれるが喜劇でもない。単なる現実の物語である。提示された象徴化された現実に何を思うかが、観客ひとりひとりの人間性を剥き出しにする。ジョーを笑うひとは自分を笑っている。ジョーに欲情するひとは自身が性欲に支配された人間であることを露わにしている。ジョーを蔑むひとは自身の性欲を蔑んでいる。『ニンフォマニアック』を悲劇的と思うひとは現実を幸福な方向に勘違いしているし、『ニンフォマニアック』を喜劇と思うひとは現実の悲劇さを知らない。<br />
<blockquote>2013年 | デンマーク、ドイツ、フランス、ベルギー、イギリス | Vol.1:117分、Vol.2:123分<br />
原題：Nymphomaniac<br />
監督：ラース・フォン・トリアー<br />
キャスト：シャルロット・ゲンズブール（ジョー）、ステラン・スカルスガルド（セリグマン）、ステイシー・マーティン（若いジョー）、シャイア・ラブーフ（ジェローム）、クリスチャン・スレイター（ジョーの父）、ミア・ゴス（P）<br />
<a href="http://eiga.com/movie/80589/" target="_blank" title="eiga.com">≫ eiga.com(Vol.1)</a> <a href="http://eiga.com/movie/80590/" target="_blank" title="eiga.com">(Vol.2)</a><br />
<a href="http://www.nymphomaniac.jp/" target="_blank">≫ 公式サイト</a></blockquote>]]></content>
	</entry>
	<entry>
		<title>『八本脚の蝶』 二階堂 奥歯</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://swd.xtr.jp/log/happonashinochou.html" />
		<id>http://swd.xtr.jp/log/happonashinochou.html</id>
		<issued>2014-10-14T12:04:50+09:00</issued>
		<modified>2014-10-14T03:04:50Z</modified>
		<summary>　二階堂奥歯。読書家。編集者。ブックレビュアー。1977年に生まれ、2003年4月26日に飛び降り自殺によってこの世を去る。　八本脚の蝶とは彼女の徴であり、彼女が2001年6月13日から自殺の当日まで日記を綴ったウェ...</summary>
		<author>
			<name>swd</name>
		</author>
		<dc:subject>本 &gt; その他</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　二階堂奥歯。読書家。編集者。ブックレビュアー。1977年に生まれ、2003年4月26日に飛び降り自殺によってこの世を去る。<br />
　八本脚の蝶とは彼女の徴であり、彼女が2001年6月13日から自殺の当日まで日記を綴ったウェブサイトの名前でもある。この本にはそのサイトに掲載された日記がまとめられている。<br />
<br />
　日記というのは読みやすい。奥歯さんは「生まれてから過ごした日数をはるかに越える冊数」の本を読み、しかもその幅は幻想文学からエログロコミックまで幅広く、はてしない本の世界を縦横無尽に超高速で駆け抜ける。私が家の近所を徒歩でとぼとぼと歩いている間に、奥歯さんは月へまでも飛んでゆく。圧倒的で越えられない量と質の差。そんな彼女の日記は、なおさらべらぼうに面白い。1ページめから引き込まれて、時間を惜しんで読みふけり、久しぶりにスピード感のある読書をした。<br />
　コスメの話や洋服の話も随所に現れ、彼女は自らを乙女と規定する。同時に、自己が他者から着せ替え人形として扱われ得る性（＝女性）であることに非常に自覚的であり、女性的装いをする自分を指して「ドラァグクイーンである」と言う。彼女は鮮烈で明晰なフェミニストでもある。<br />
<br />
　どのあたりからだろうか。彼女の日記から、彼女の言葉が減ってゆく。書物からの引用が増える。コスメや洋服の話をしない。何かを楽しむ描写がない。読むのがつらくなり、自殺という結末を知っている私はなおさら、読み進めるのが恐ろしくなる。ページをめくるスピードが落ちる。続けて何ページも読むことができなくなる。呼吸するために本を置かざるをえない。体が冷えてゆく。絶対零度の極寒にいるような心地がする。<br />
　しかし、死へ向かう人の言葉から意識を逸らすことを自分に許すことはできず、自分の日常のなかでも常に思考の一端を彼女の意識とリンクさせ続けている。<br />
<br />
　あらゆる自殺は止められると思っていた。人はだれも自ら死を選ばない方法を持っていると信じていた。これは信念ではなく、信仰だと自覚している。そう信じたいから信じるのであって、根拠はない。しかし、「信じたい」だけを理由を信じてこれたのは、否定される根拠もなかったからだ。<br />
　『八本脚の蝶』を読んで、信仰が揺らいだ。生きていて欲しかった。彼女の数年先、数十年先を見てみたかった。しかし、では目の前に彼女がいたとして、私は彼女に「生きていて」と言えるだろうか。言えはしない。それを確信できてしまう。<br />
　彼女を孤独にしたくないが、私では、そしておそらく他の誰でも、彼女に寄り添うことができない。彼女から与えられるばかりで、誰も彼女に何かを与えられない。<br />
　周囲に対してあまりにあけすけに生きていた彼女に対することだから、私も逃げずに言わねばならないと思う。彼女と比しての自分の凡庸さに、安堵する自分がいる。凡庸ゆえに生き延びられる自分に安堵する。<br />
<br />
　お会いしたことのない人を下の名前で呼ぶことを私はしない。ただひとりだけ、中山可穂さんという作家だけはひっそりと「可穂さん」とお呼びして来た。自身もレズビアンであり、レズビアン小説を多く書かれている可穂さんは、私にとってどうか近くにいさせて欲しいと願う存在であるからだ。<br />
　奥歯さんもまた、どうしても、失礼を承知の上で、「奥歯さん」と、小さく名前で呼ばせて頂きたい方である。<br />
<blockquote>2006年1月　ポプラ社<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4591090906?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4591090906&adid=0G0TDPCMVG12CBHMNSPZ&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></blockquote>]]></content>
	</entry>
	<entry>
		<title>『ペン』 引間 徹</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://swd.xtr.jp/log/pen.html" />
		<id>http://swd.xtr.jp/log/pen.html</id>
		<issued>2014-09-25T22:48:14+09:00</issued>
		<modified>2014-09-25T13:48:14Z</modified>
		<summary>　日常に食い込んで、読んでいる時以外も決して意識から離れない小説というのがある。それは「先が気になる」とか「衝撃的で忘れられない」というものではなく、非日常（創作物）と日常の狭間のエアポケットにすっ...</summary>
		<author>
			<name>swd</name>
		</author>
		<dc:subject>本 &gt; 日本小説</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　日常に食い込んで、読んでいる時以外も決して意識から離れない小説というのがある。それは「先が気になる」とか「衝撃的で忘れられない」というものではなく、非日常（創作物）と日常の狭間のエアポケットにすっぽりと入り込んでいる小説だ。<br />
　そういう小説は、リアリティの高さよりもむしろアンバランスな幻想性を含む。そして、読むはしから作中の出来事が、自分の日常の一コマとして組み込まれてくる。その本を読んでいるという事実でなく、その本のなかの登場人物や出来事たちが、私自身の日常の一画を占めるようになるのだ。この一冊は、まさにそんな小説。<br />
<br />
　「フエルトと化繊わたとでできた、ペンギンのぬいぐるみ」であるペンが一人称で語る、近くて遠い、ありふれていてどこにもない、ペンだけの物語。ペンは左右非対称の目を持つへちゃむくれのぬいぐるみで、食いしんぼうで、いつか本物のペンギンのいる南極へ行くことを夢見ている。<br />
　持ち主である「あの人」に深く愛されてタマシイの目覚めたペンは、あの人の部屋でアザラシのぬいぐるみゴマと暮らし、あの人とあの人の彼女と三人で川の字になってごろごろする。ぬいぐるみでありながらしゃべり、思考する自分について時々考えながら、しかし「今日のイワシがおいしかったらそれでいいや」と、ペンギンらしい刹那主義で日々を暮らしている。<br />
<br />
　ぬいぐるみにはぬいぐるみの世界のシキタリがあるのだと語るペンは、時にあの人の保護者のように振る舞う。ぬいぐるみのやり方であの人を守ろうとする。そしてすべてのぬいぐるみがそうであるように、時には友人であり、あるいはまた恋人でもある。<br />
　ぬいぐるみに万全の愛情をそそぐあの人は、落ち着かなくなると指にタオルを巻きつける癖を持ち、追い詰められるとその場から逃避してしまう。ペンにとってはかけがえのない存在であるあの人は、きっと社会から見ればちょっとおかしな困り者だ。<br />
　けれどもちろん、そんなことはペンにとっては関係がない。ペンとあの人、あの人とペンは、互いに寄り添い合いながら、現実という容赦のない怪物と対峙している。<br />
<br />
　この小説の主軸となるペンにかぶさる運命は、単なるぬいぐるみが背負うには少々過酷なものだ。それでもペンは、ペンギンらしい楽観主義で、うろたえるあの人を慰める。その楽観主義は、実は生身を持たないぬいぐるみならではの大いなる達観なのかもしれない。いずれにしろ、ペンは人間には真似のできない忍耐強さであの人を守り続ける。<br />
<br />
　すべての弱さを抱えた人にペンが必要なのだと、『ペン』を読むと思う。正面から向き合うには現実が辛すぎる時、すべての人にペンが必要になるのだと思う。そして同時に、世界中に存在するはずの「ペン」を思う。持ち主に愛され、タマシイを宿したぬいぐるみ達を想う。<br />
　『ペン』はペンだけが持つ物語であり、同時に世界中ありとあらゆる場所で起こっているはずの物語でもある。子供の頃一緒に眠ったぬいぐるみ、今も誰かが大事に抱きしめているぬいぐるみは、すべてそれぞれかけがえのないひとつであり、同時に必ずすべて「ペン」であるはずなのだ。彼らがそれぞれのかたちで幸せであれと、かつて私も「ペン」に守られたひとりとして、祈らずにはいられない。<br />
<blockquote>初版：1997年9月　集英社<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4087742601?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4087742601&adid=1JAF92M8F7TNNKV2GP75&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></blockquote>]]></content>
	</entry>
	<entry>
		<title>『女の子よ銃を取れ』 雨宮 まみ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://swd.xtr.jp/log/girls_just_want_to_have_guns.html" />
		<id>http://swd.xtr.jp/log/girls_just_want_to_have_guns.html</id>
		<issued>2014-08-24T22:52:06+09:00</issued>
		<modified>2014-08-24T13:52:06Z</modified>
		<summary>　どう読んだものか終始迷い続け、結局迷ったまま読了してしまった。　タイトルに「女の子よ」とあり帯文に「『キレイになりたい！』と、言えないあなたに。」とある通り、この本は「女の子」である著者が同じ「女...</summary>
		<author>
			<name>swd</name>
		</author>
		<dc:subject>本 &gt; その他</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[　どう読んだものか終始迷い続け、結局迷ったまま読了してしまった。<br />
　タイトルに「女の子よ」とあり帯文に「『キレイになりたい！』と、言えないあなたに。」とある通り、この本は「女の子」である著者が同じ「女の子」である読者へ向けたメッセージエッセイだ。「社会の常識や周囲の視線に屈して自分の好きな装いをすることを諦めなくていい」というメッセージがあらゆる視線から徹頭徹尾語られる。<br />
<br />
　が、私は性自認が女性ではない。<br />
　著者である雨宮さんはこの一冊のなかで「女性」というジャンルをなるべく広く捉えようとしているけれど、それでも雨宮さんご自身が「化粧が好き」で「装うことは楽しい」と仰る方だ。視点はどうしても「女の子はキレイになりたいと思っている」という価値観が支軸になってしまう。自身に女性性を感じていない自分は、この一冊を読みながら別世界を覗き見ている気分でいた。<br />
<br />
　それでも、付箋を貼った章が二つあった。「“男の世界”の女の子」と「綺麗になりたくない女の子」という章である。<br />
<br />
　この社会において、女性の「おしゃれ」とは“なぜか”「男性に気に入られるため」にしているということになっている。その事実は昔の私を常時足かせをはめられている気分にさせていた。今はもう笑い飛ばせるようになったけれど、二十代前半の頃は「異性のための服装ではない」のに「異性に対する服装として適しているか」を尺度に自身の外見をジャッジされることへの嫌悪感で潰れそうだったことを覚えている。<br />
　当時はまだ自分の性自認が女性ではないという自覚がなく、それゆえに社会の価値観に迎合するかたちで今よりも女性的な格好をする機会が圧倒的に多かった。が、それでもそれは「自分が気に入った服」を身につけているだけであって「異性の気を引くため」ではなかった。そもそも私は外見と内面のギャップが大きい人間なので、外見から人間性を判断する人とはその後関係に必ず大きな摩擦を起こす。だから、外見的に「かわいい」女の子を好きなヘテロセクシュアルの男性は遠ざけておきたい存在だった。<br />
　それでもなお、どんな服装をしていても、自分の外見を「自分で自分を気に入るための服装をしているのだろう」でなく「異性にモテるための服装として選んでいるのだろう」としか判断されない息苦しさ。あの窮屈さは忘れがたい。<br />
<br />
　そして、「綺麗になりたくない女の子」という章では、雨宮さんが自身の「キレイになりたい」「装うことは楽しい」という視点から離れ、自身の外見をキレイにすることに関心のない女性のことを取り上げている。<br />
　これは、女性ではなくとも女の体を持っている人なら多くの人がぶつかっている壁だろうと確信する。<br />
　「女の子はおしゃれが好き」で「キレイになりたい」“はず”だというこの社会の観念。外見的に女性である人は、私のように性自認が女性でないとしても、「こうすればキレイなのに」という言葉や示唆にさらされる。化粧をすればいいのに、スカートを履けばいいのに。<br />
　自身が求めていないものを、なぜ他人から求めさせられなければいけないのか。<br />
　例えば誰かが運動が嫌いだと言ったところで、本が嫌いだと言ったところで、周囲の人は何も言わないでしょう。何を好きで何を嫌いかは本人の自由なのだから。なのになぜ、女の体を持って生まれた人間は綺麗に装うことを好きでいなければならないのか。「化粧なんて必要ない」「服を買うより本を買いたい」と言うとなぜ非難の目で見られなければならないのか。これは、この社会が抱える深い歪みだ。<br />
　これは発展して、体も性自認も男性だが美しさを求める人への抑圧にも繋がってゆく。自分の求めるものを自分で決められないという理不尽が、なぜか外見に関する事柄に関してだけは堂々とまかり通ってしまっている。<br />
　個人的な話をするなら、私は別に「綺麗になりたくない」わけではない。ただ私が私自身に願う「綺麗さ」とは姿勢や歩き方、食べ方などの所作振る舞いであって化粧のうまさや服を選ぶセンスではない、ましては「女性的であること」では決してないということだ。「女性（の体の持ち主）が綺麗であることを願う」と「女性的であること」が何の疑いもなくイコールの記号で結ばれていること自体に、私はノーを突きつけたい。<br />
<br />
　自身に特に関わりの深い二章を取り上げて話してみたけれど、とにかくこの本にはこのように「この社会がいかに女性（あるいは女の体を持っている人間）を狭く特定の枠に押し込めようとしているか」という話が幅広く綴られている。<br />
　性自認が女性ではなくかつ女の体を持っている私が共感できる部分があったのは上記二章のみだったけれど、性自認が女性である方ならば、より多くの共感を抱けるエピソードがあるのではないかと思う。<br />
<br />
　女性が自分自身の美の基準を持つことを妨げられ、あるいは美を求めることを強いられているのが今の社会だ。<br />
　自分の好きなものを好きだと言うこと、不要なものを不要だと言うこと。たったこれだけのことが、なぜか「女性」と「おしゃれ」の間では成り立たっていない。このねじれを打ち壊したいという著者の思いが、タイトルの「銃を取れ」というフレーズにあらわれている。<br />
<br />
　自分は誰かのためにいるのではない。自分の求める自分を他の誰が求める自分よりも優先していい。この著者のメッセージを、私自身からも、性別関係なく社会からの抑圧に苦しむすべての人に伝えたい。<br />
<blockquote>初版：2014年5月　平凡社<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4582836593?tag=woshuku-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4582836593&adid=0DE3Z44R6127YSTTMHCD&" target="_blank">≫ Amazon.co.jp</a></blockquote>]]></content>
	</entry>
</feed>
