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『イッツ・オンリー・トーク』 絲山 秋子
 こういう本との出会いは唐突だし、人生のなかで間違いなく出会うべき本だったと確信できるし、ぱっと瞬間的に頭の一部を持っていかれちゃうので現れるタイミングはきちんと図って来てもらいたいし、でもきっといつ来られても日常に困るほど「持ってかれちゃう」のは変わらないから、どう転んでも転ばされるしかないのかもしれない。

 表題作の「イッツ・オンリー・トーク」と「第七障害」が収録されている。どちらもいい。
 「第七障害」では、主人公は灰色の雲のなかをいつまでもぐるぐると回って、もうどこから来たのかも、どこへ行きたいのかもわからなくなって、このままここが自分の居場所になるんだなと、諦めることすら忘れてただ感じてしまう。そしてそうなってみた後になって、唐突に雲の外へ抜けていく。
 不安定さのなかでそれでも時間は流れてしまう、自分も変わってしまう、そして解決なんてもうないんだと思った時になぜかすとんと心に落ち着きが落ちてくる感じは、きっとせりふの多い、難しい言葉を使わない、こういう小説がもっとも得意とするところなんだと思う。

 けれど、そんな佳作「第七障害」を押しのけて、「イッツ・オンリー・トーク」の存在に、主人公である優子に、私はぐいっと心を持っていかれてしまった。彼女は私だ。あんまりぴったり合って驚いてしまった。「そうかこの世には私以外にもこういうひとがいるのか」と思って、その後に「いやこれはこの世の話でなく小説だった」と考えなおした。
 もともと客観的な感想を書けない私だけれど、こと「イッツ・オンリー・トーク」に関しては、一切あてにならない感想しか書けない。優子はあまりに私そのもので、自分の人生を冷静に判断しろというのと同じくらい、この小説を評することは不可能だ。
 自己紹介なんて面倒なことをするなら村山由佳さんの『海を抱く BAD KIDS』を読んでもらおうと思っていたけど、今回そこにこの「イッツ・オンリー・トーク」が加わった。

 精神病院への入院歴があって、セックスする相手を選ばなくて、世話焼きなくせに誰にも優しくない優子。考えているのは自分のことばかりで、誰に対しても「他人である」という距離感がくずれない彼女。
 きっと優子はどこかが直しようもなく壊れている。それは間違いがない。けれど、彼女でなければ見えない世界というものがあって、それはきらめいても輝いてもいないけれど、掛け値なしに他の誰にも感じられない唯一無二の世界だ。それでも、残念ながら、それは常識や平凡さと引き換えにしてまで手に入れるべき世界ではない。ありふれた生活を送ることができるというのは一種の才能で、それを欠いた人間が引き受ける穴を埋められるほどのものではない。
 つまり、この小説に書かれているすべては平凡さより価値のないものでしかない。優子の側を何人もの男たちが通りすぎてゆく。いくつもの出会いと離別が起こる。けれどそのすべてが、優子にとっては「所詮」と語れるものでしかない。「所詮ムダ話さ」と。

 この本は、朝出かけるバスのなかで読み始めて、帰りのバスのなかで読了した。一日で読み切った一冊だった。「第七障害」は、とてもいい短編小説だったのに「イッツ・オンリー・トーク」の余韻に酔いながら読んでいるうちに終えてしまった。
 何を言いたいんだかちっともわからない文章になったけれど、とにかく、「ああ私がいるな」と、ただそう思ったことが本当にこの一篇に対するすべてだ。
初版:2004 年 2 月 文藝春秋
>> Amazon.co.jp(文春文庫)
2011.10.10