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かつての名作 『マイ・フェア・レディ』
 感想を書くのが難しい映画を観てしまった。まずは作品のあらすじと来歴から押さえてみようかと思う。
 花売り娘のイライザは、そのひどい訛りを音声学者のヒギンズ博士に指摘され、貧しい生活から抜け出すためヒギンズ博士の元で美しい英語の話し方や作法を学び、一人前のレディになろうとする。
 ミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』の原作は、1913 年初演のジョージ・バーナード・ショーによる戯曲『ピグマリオン』だ。1938 年にはこの戯曲が映画化され、さらに 1956 年に『ピグマリオン』を原作とするミュージカル舞台『マイ・フェア・レディ』が公開された。そのミュージカル舞台の映画化が本作であり、1964 年の公開である。

 およそ 50 年前の映画でありながら、映像美の魅力があふれている点には目をみはる。元になった舞台演劇の要素をうまく映像に落とし込みつつ、映画として成立させている。
 白眉は競馬場のシーンだろう。白と黒と灰色で統一されていながら至極華やか、かつ洗練されスタイリッシュな競馬場シーンの映像は、ほんの少し手を加えるだけで現代アーティストの PV としても充分通用するんじゃないかと思える。
 古い映画らしいテンポの緩やかさと現代でも通用する映像的美しさで、現代の映画にも、古いだけの映画にもない、不変の魅力をそなえている。どんなに風俗が変わろうと、徹頭徹尾こだわられて作られた作品には褪せない魅力が備わるのだと思わされる。

 が、やはり、問題になってしまうのはストーリーだ。ストーリーを生み出す元になる社会意識と言ってもいい。
 映画の直接の元になったミュージカル舞台にさかのぼると 57 年前のストーリーだ。馬車と車が併存し、世には婦人参政権運動が起こっている。まだ「女性は男性に従うものである」という意識が強かった時代だ。
 ヒギンズ博士は生粋の差別主義者だ。もちろん、それは当時は問題になるものではなかったのだろう。階級社会であり、男女は対等ではない。それが当たり前の社会でなら、この映画は名作として成り立ったのだと思う。が、それはもう現代には通じない論理だ。
 ヒギンズ博士は言う。「ひどい訛りのドブ暮らしの女から淑女を作り出す」「汚い英語を話すから悪いんだ、それが上流階級との間に壁を作る。美しい英語を教えてやろう」。“訛りが壁を作るのだからそれを壊してやろう” というのは見事なまでの差別主義だ。“訛りは汚い” というのも “汚い言葉遣いは悪い” というのもヒギンズ博士の、ひいては上流階級の人々の一方的主観でしかない。自らの主観でただの “違い” を “悪” にするのは、まさしく差別の構造だ。
 たとえばこの映画の主人公イライザが下町生まれの英国女性でなく、留学か何かしている日本人青年だったらどうだろう。日本人が金髪か茶髪の人々しかいない国に行ってみたら、「君の髪が黒いのが悪いんだ。汚らしい。美しい金髪に染めてやろう」と言われる。ひとりの人間に対して、これ以上の侮辱もないだろう。

 ヒギンズ博士がしたのは他者からアイデンティティを奪う行為である。それはイライザの父の描写でより顕著に、明確に現されている。

 もう一度言うけれど、この映画が公開された当時の社会意識がこのストーリーを作ったのだ。ヒギンズ博士の差別主義が一度たりとも否定されず、最終的に男性および上流階級におもねる形でストーリーが幕を閉じたのは、この映画の瑕疵として指摘されるべきではない。
 ただ、この映画がよい作品として成り立つには、もうあまりに多くの時間が経ってしまったのだ。かつての名作と呼ぶほかはない。
1964 年 | アメリカ | 173 分
原題:My Fair Lady
監督:ジョージ・キューカー
キャスト:オードリー・ヘプバーン、レックス・ハリソン、スタンリー・ホロウェイ、ウィルフリッド・ハイド=ホワイト、ジェレミー・ブレット
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2013.07.14