香里は感謝している。透という理解者を得たことに。こころよわい母と、そのよわさを甘やかす父を見ながら、香里は強くあることを望んだ。
なにが強さか。自らの死ぬ刻を勧告されてから、香里は考え続けた。死を恐れないことが強さか。ならばいっそ、与えられる死より、選び取る死はどうだろう。せまる死に、待つでなく、逃げるでなく、自らむかうは、強さだろう。
彼女は自死を望んでいる。
母と父に、同じ道を進むだけの強さはない。けれど、あの幼い透は、最期の瞬間を香里と共に選び取ってくれるだろう。
透と香里は、東の岸壁に立つ。
きょうだね、と。音にはならないまま、ふたりは会話をする。人と人は言葉なしに理解しないことを、ふたりは知らない。沈黙の共有は思考の共有であると、疑うことすらしない。
「さよならの日だね」
香里は、信頼に満ちた瞳で透を見つめる。
「うん」
見つめ返す透は、ありったけの心で、涙と震えを内側に留める。
「最期まで、一緒だよ」
「――うん」
互い違いにかけられた理解は、盲目に強く、ふたりをつなぐ。香里の右手と透の左手のように。
おなじ蒼と碧を見ている。そして、ちがう願いを抱いている。せめてもの生を。選び取る死を。
「さよならを、しよう」
香里の言うさよならを、透は、すこしでも穏やかに生を遂げるための儀式なのだと思う。世界にきちんと挨拶をして、来たる最期を迎えるための。
「そうね。さよならをしよう」
蒼を見あげる透が言う。香里は、はるか遠い碧を見つめながら、幸せを覚える。他者と世界を共有するという、存在しえない幸福。
幸福を永遠にしたいなら、幸福なままに足を踏み出さなければならない。蒼と碧のあいだに。
強く強く、つながれた右手が、左手を引いていく。
瞬間、透の顔がゆがんだ。理解するいとまもなく、ただ、嫌、と透は叫んだ。小さく短い悲鳴。それは、香里に届かない。
岸壁から落ちるちいさな影ふたつ、互い違いの理解でつながれながら、幸福と絶望にまみれて碧に消える。
さよならの日のこと。