香里の迎える朝は早い。母と父と自分と。そして一昨日からは、透のためにも、朝のうちに三食分の食事をすべて作ってしまう。
　ひとつき以上前から、香里の母親は寝たきりのような状態でいる。彼女は夫を放そうとせず、香里が作る食事を、ベッドの上で夫の手から食べる。そして、母は、ひっきりなしに夫を求めている。それを香里は、簡素な造りの壁越しに知っている。
　彼女は弱いのだなと、香里は思う。さよならをすることを、受け入れられずにいる。さげすむような感情はない。ただ、あんなにも弱い彼女から自分がつくられた、その事実に実感を持てないだけ。
　この季節この島には、南と東の間から、時おり強い風が吹く。海の匂いを持つ風の中を、香里は東の岸壁に向かって歩く。真正面に昇り始めた太陽がある。最後から二つめの朝日。
「あした、だ」
　呟く香里の表情は、悲しみや絶望を浮かべない。

「きれいだね、スイ」
　ふたりは、岸壁のふちに並んで座る。香里のみじかい薄茶の髪を風が乱す。押さえるでもなく、香里はされるがままでいる。
　蒼い空と碧い海の景色が、茫漠と広がる。
「うん。きれいだね」
「でも――もう、見られなくなるんだね。……残念だね」
　香里は笑みをすら浮かべている。その姿に、透は焦がれるような想いを持つ。香里の穏やかさに、近づきたいと。その強さを得たいと。
「きれい、なのにね」
　底のない恐怖とあてどない不安、すべてを隠して、透は答える。
「ね。せっかく、きれいなのにね」
「――ね」
　いま言葉を交わしているこの人は、自分と同じ世界を見ているのだと、ふたりはそれぞれに信じている。

　夜。星をかくす暗い雲の下で、透はひとり、いる。あふれでる涙は止めようもなかった。せめて香里の前ではこぼさずにいられたことに安堵すると、透明な水は余計にこぼれた。
「こわい、よ」
　言ってしまうと恐ろしさは増し、けれど沈黙は重すぎて体を潰してしまうようだ。
　透は、昼間のふたりの会話を反芻する。きれいだ。蒼と碧は、とてもきれいだ。
「もう、見れなく、なるんだ」
　自分のこの目は、明日にはもう、なにも映さなくなる。
　鈍重な恐怖が支配する。さよならの明日へ向かう夜が進む。
　おなじ夜を、あの香里すら持つのだろうと、透は疑いなく思う。
　それでも、香里は、最期の瞬間までを透と共に生きてくれるだろう。