恋人がいるから、恋ができるの。
この四年、これが私の常套句だった。こんな愚かな詭弁ひとつで私に付き合ってくれた、刹那の恋の相手となった人たちは、誰もが穏やかな無関心の持ち主だった。これ以上ないほど、幸福な四年間だった。
親身になられることが苦手だ。濁りのない無垢な感情の矛先を向けられるのは、身がすくむほど恐ろしい。あさはかな恋慕と優しいだけの指先と、ただ与えられるだけの真綿のようなぬくもり。それが恋のすべてだったし、それ以上の何かなどいらなかった。
恋人と出会ったのは、五年と三ヶ月前のことだ。暖かな日射しとほのかに冷たい風が降り注ぐ、四月のことだった。初めて話したその時に私にはこの人しかいないと気がつき、ひとつき後には、電車で二十分の距離にあるお互いの部屋を繁く行き来する関係になっていた。彼は私を「奈緒さん」と呼び、私は彼を「フミさん」と呼んだ。直史という彼の名前の響きが私は好きだったけれど、彼は「四文字の名前って呼びづらいでしょ」と笑った。私は何も言わず、特別な日にだけ、彼を「直史さん」と呼ぶことにした。
直史は感情をあらわにしない人だった。怒ることがない代わり、愛情を表に出すこともあまりなかった。その直史の穏やかさに、私は芯から満たされた。私をさいなむことのない温度の低い直史の愛情は、私の心に平穏を与えてくれた。そして、だからこそ、私のなかにある激しさを求める心は、いつまでもうなりをやめようとしなかったのだ。
私が短い恋を繰り返すようになったのは、彼と恋人同士になってからちょうど一年が経とうとする頃だった。自分のしている行為が浮気と呼ばれるものだと、知ってはいる。けれど私には、自分でも訝るほど、罪悪感が芽生えなかった。私は、私の生涯を捧げられる相手は直史だけだと知っている。何十年を共にできる人に対する穏やかな思いとほんの数ヶ月焦がれるだけの感情が、ひとつの天秤の左右に乗せられるべきものだなんて、私にはどうしても実感が沸かなかった。直史がいるという安心感を背中に感じながら、私は思う存分恋をした。
一時交わっては離れてゆく関係を数えるのもばからしくなるほど繰り返して、四年が過ぎた。直史のためならいつやめても構わない恋ばかりだったから、かえって抜け出すきっかけもないままその生活を続けていた。彼女とも、ただそれだけのつながりのはずだった。
インターネットのコミュニティサイトで見かけたのが始まりだった。彼女の存在に気がついたのは私が先だったけれど、最初に声をかけて来たのは彼女の方だった。私の言葉のリズムが心地良いと彼女は言った。私にはない、いっそ微笑ましくすら感じる彼女の言葉足らずさが私には好もしかった。コミュニティサイトを離れ個人的なメールでやりとりを交わすようになるまでに大した時間はかからなかった。私にとっては幾度となく繰り返してきた、恋と逢瀬の始まりに過ぎなかった。
浮気相手に一度も異性を選ばなかったのが私なりの直史への操立てだと言っても、誰も理解はしないだろう。我ながら、なんて理屈の通らないことをと、思ってはいる。
気軽さを装って「会ってみたい」と誘ったのは私からだ。普段よりも彼女からのメールの返信に間があった。けれど私は恐れなかった。彼女の私に対する好奇心は痛いほど感じていたし、万が一断られたところで、それは私にとって彼女とはその程度の縁だったのだという事実を示すに過ぎない。
今ふり返ると、あの時彼女が断っていてくれればと、思わないではない。
激しく愚かな、互いに利己的な思いをぶつけ合うだけの恋が好きだ。いたわりも思いやりもない、相手からその人自身を削ぎ落とし奪い取っていくような、幕切れればあっけなく霧散していくのに最中にはこの世の他のなにも目に入らなくなるような、そんな恋が好きだ。だから、私は初めて彼女をこの目で見たとき、ほんの少し落胆した。放つ気配の希薄な人だった。激しい思いをその身に孕むような女性にはとても見えなかった。だから私は油断して、彼女の見せた不意の激情に、打ちのめされたのかもしれない。
恋人の存在を打ち明ける瞬間を私は毎回楽しみにしている。そのタイミングは一度目の情事の後、ベッドのなかでと決めている。怒る人もいるし、呆然とする人もいる。驚いた後揶揄するように笑う人、顔をしかめる人。返ってくる反応の多様さは私を愉快にさせてくれる。
彼女の場合は、まじまじと私の顔を見つめ返した後、黙ってベッドを抜け出てあたりに脱ぎ散らかした服を身につけ始めた。
「嫌だった?」
背中に声をかけても、彼女は振り返りもしなかった。
「ねえ、あんまり深く考えないでね。こんなこと気がつくようなひとじゃないし、変なことにはならないから。私があなたのことを好きだっていうのも本当だし――」
つとめてさりげなく言葉を重ねながら、私は身を起こして彼女へ手を伸ばした。薄手のブラウスを羽織った腕に、そっと触れた。途端、まるで電気でも当てられたかのように、彼女はその腕を跳ね上げた。そして勢いのまま私を振り返り、
「ふざけるな!」
一喝した。
それだけなら、私はその彼女の態度に怒りと反発を覚え、私たちの関係は物別れに終わっていただろう。けれど、私はその彼女の怒声より、今にも涙のこぼれ落ちようとする眼に釘づけになった。悲しみを表に出すまいとして自らの怒りを必死で燃え盛らせようとする、彼女のいじましさを、私はその両目から感じ取った。
涙を浮かべながら私をにらみつける彼女の瞳から、私は目をそらさなかった。後になって彼女はその時の私の表情を、氷のような恐ろしさだったと語った。冷徹で感情を持たない、自分よりも下位にいる人間を上段から見下ろす観察者の目だったと。
私は改めて、私に向き直った彼女の腕に手を伸ばした。避ける必要すらないと示すように、彼女はぴくりともせず私に腕を取らせた。私は彼女の体を引き寄せ、両の腕でかき抱いた。
「ごめんね」
恋の相手に謝罪の言葉を捧げるなど、かつてなかったことだった。私のその一言で、こわばった彼女の体の緊張が、一気に解けた。私の腕のなかで彼女は果てどなく泣き続けた。
その一度きりにしておけばよかったのだ。恋人がいるなら付き合えないと彼女が言い、私が恋人とは別れないと言い、そうやってそれきり関係を絶ってしまえばよかったのだ。けれど、激流に押し流されている最中に、理性というわらしべがどんな役に立つというのか。
彼女と直史と、交互に逢瀬を重ねる日々が続いた。私にとって活力の源であったはずの短い恋が、直史との平らかな生活に影を落とし始めた。直史に対する情愛と彼女に対する恋慕は私の心の容量をとっくに超えていて、私は壊れかけていた。そしてとうとう、ひとを疑うことを知らない直史がいぶかるほどに、私の態度は明らかな異常を示し始めていた。
直史の家を訪れた私にお茶を出してくれながら、彼は切り出した。
「ねえ、奈緒さん。おれの勘違いなら申し訳ないんだけど――」
どこからどう見ても怪しげな態度の恋人に、こうまでなっても礼を忘れない直史が、私にはひたすら愛おしかった。
「なにか、あった?」
ひびだらけになっていた私の堰を切るには、その小さな打撃だけで充分だった。直史が、あのいつでも私に全幅の信頼を寄せていた直史が、私自身に直接尋ねるほどに確固とした不審を持った。それだけでもう、私は直史にすべてを白状するしかなかった。たとえ直史を誤魔化すことができたとしても、私自身がもう限界だった。すべてを話してなじられて、楽になってしまいたかった。
私は口を開ける。この先どれだけ続くのかもわからない一時の恋のために、いつまでも安定して巡ってゆくだろう直史との日々を手放そうとしている。あまりの愚かさにめまいがした。けれど他に、どんな道があると言うのだろう。私の頭は今、彼女の体に溺れることしか考えていない。