それほど広くはないダイニングテーブルにじっと視線を落としたまま、私は彼女との関係について語った。彼女と出会う以前の数えきれない戯れのような関係を隠したこと、彼女とも初めは浮気のつもりではなかったのだと嘘をついたこと。それらが果たして直史に余計な傷を負わせないためだったのか、あるいは自分の保身のためだったのか、話しながら私自身にもわからなかった。
直史の感情に共振したりしないように、合板の木目の輪を何度も目で追っては見失いしながら、私は感覚を麻痺させて話した。それでも、直史が発する気配はしんしんと私の周りを包んでいく。とまどい、疑念、痛み、哀しみ。いくつもの感情が渦をまいて、けれどどれだけの時間が過ぎても、直史は憤りを表しはしなかった。
直史と会う以上の頻度で彼女と会っている、明日も会う予定だと、そこまで話して、私はぱたりと口をつぐんだ。話すべきことはすべて語りつくした。他にもう、私にできることはなかった。直史もまた、しばらくの間口を開かなかった。
長い、あまりにも長い沈黙があたりに満ちて、私は深海の水圧に押しつぶされるように自分の体が縮んでゆく幻想を覚えた。そうして私が自分の存在すらあいまいに感じ始めた頃、直史はようやく口を開いた。
「それで、どうするの」
思い切り罵られることを望んでいた私にとって、直史のその声はあまりに静かだった。いたたまれなさに、本当に自分が実在しない人間だったらよかったのにと願った。
「どう、って――」
「おれは、そのひとと別れて欲しいけど、それはおれの意思だし。奈緒さんはどうしたくて、実際どうするの」
それは、いつでも変わらない直史の公平さだった。決して自分の意思を私に押しつけたりしない、その正しい態度が私にはこの上なく居心地がよかった。けれど今ばかりは、その曲がらない正しさが恐ろしかった。
「彼女と別れるのは、無理――。別れられるものなら、フミさんに話したりしないわ」
「なら、おれと別れるんだね?」
同時にふたりのひとと付き合っていくことはできない。そんな、世間のあたり前の事実を、私は直史に示されることでその時初めて飲み込んだ。
頷いてはいけない。考えさせて欲しいとでも時間をちょうだいとでもなんとでも言って、かせいだ時間で心を立て直して、またいつものように直史との生活と短い恋とを楽しめばいい。私のなかで声がする。けれど、それは無理だ。さっき自分で言った通りだ。そんなことが今さらできるものなら、最初から直史にこんなことを話さねばならない事態に陥ったりしていない。
「うん」
首を縦に振り、そのまま私はまた目線をテーブルに落とした。
「わかった」
なぜ直史はこうも物分りがいいのか、感情を波立たせないのか。声を荒らげられるよりもずっと、直史の穏やかさの前では今の私は身の置き場がない。私は視線を下げたまま席を立った。部屋に入ってからまだ一時間も経っていない。こんな短時間でこの部屋を立ち去るなんて、初めてのことだった。
けれど、直史は私を凍りつかせる一言で私のことを引き止めた。
「よければ、会ってみたいんだけど」
「え」
思わず目を見開いて、直史を振り返った。
「そのひとに一度、会ってみたいんだけど」
あまりに唐突なその提案に、私はただでさえ細くなっていた息を、さらにうまく吸えなくなった。
「どうして……」
「奈緒さんが選んだひとを見てみたい、からかな」
言ってから、直史は自分の言葉を疑うように少し首をかしげた。
「いや、きっと、実感が欲しいんだ。自分の彼女に、好きな女が出来たから別れたいって言い出された男が、どれだけ戸惑うかわかる?」
わかるはずもない。首をふることすらできず、私は黙って直史を見返した。
「別に、そのひとに喧嘩売ろうとか思ってるわけじゃないから。うん、本当にただ、ふたりが一緒にいるところを見てみたいんだ」
「――彼女に聞いてみないと、なんとも……」
間の抜けた答えを返したら、直史は見慣れた笑みを浮かべた。
「そりゃそうだ。じゃあ、聞いてみて。修羅場を演じたいわけじゃないって、念押ししておいてね」
言うと直史は椅子を立った。平均よりも頭ひとつぶん背の高い直史を、慣れ親しんだ首の角度で私は見上げた。時間に余裕のある時なら、直史はいつでも私を駅まで送り届けてくれる。
「いいよ、悪いから。ひとりで帰る」
私が直史の意図に気がついて断ると、直史はまた少し首をかしげた。
「じゃあ、玄関まで」
我を通そうとすることの決してない、直史のこういうところが私には本当に心地よい。
たった今別れ話をした直史の好きなところばかりが目について、私はせり上がってくる涙を彼に見せないように、慌ただしく玄関へ向かった。
「そういえば、その人、名前はなんていうの?」
私の内心など知らぬげな、のんびりとした口調だった。
「――春川よ」
私は彼女の――温子の苗字だけを、直史に告げた。
「春川さんね」と、口のなかで小さくつぶやいてから、直史は三和土に立つ私を見つめた。
「会えるかわかったら、連絡してね」
玄関のドアを閉める最後の瞬間まで、直史はいつもと変わらない、晴れた日の湖面のような笑みを保っていた。