「温かな子」という名前にそぐわない攻撃性を、温子は時々あらわにする。直史の家から自宅へ帰り温子に電話でことの成り行きと、それから直史からの申し込みを伝えると、温子はまず私が直史と別れたことに驚き、次に普段は潜めている気性の荒さを見せた。
「なにそれ。会ってどうするの」
「ただ会ってみたいだけだ、って。喧嘩するようなつもりはないって、変に勘ぐらないでくれって――」
「勘ぐるもなにも、そもそもどうして元カノの恋人に会いたいなんて考えるの。おかしいんじゃないの」
激した口調で言われて、私はつかのま口をつぐんだ。ここで私が直史をかばうようなことを言えば、温子はますます激昂する。けれど、私に五年間の満ち足りた日々をくれた直史が温子のなかで見下げられるのに、私は耐えられなかった。
「お願いだから、悪い方にばかり取らないで。確かにふつうではないかもしれないけど、本当に、ただ私たちのことが理解できないだけなんだと思うの」
温子の気持ちを逆立てないようにゆっくりと、決して直史の肩を持っているように聞こえたりしないように気をつけた。温子は携帯の向こうで黙り込んだ。息遣いすら聞こえるような沈黙が数秒。そして、
「いいよ」
と、押し殺した声が聞こえた。その声のなかに押し込められたものが憎しみにすら似た何かのような気がして、私は瞬間、首筋の冷える思いがした。
「温子――お願いだから、喧嘩したり、挑発したり、しないでね。ほんの少し、話をするだけ。お願い」
私の懇願に、温子は変わらない声音で「わかってる」とだけ答えた。そして温子は、土日ならいつでもいいからと言い添えて、通話を切った。
私はカレンダーを睨みながら日程を考え、翌週の日曜日、昼下がりでどうかと直史にメールを送った。穏やかに晴れた日曜日の午後の空気のなかでなら、少しでも平和に会話が進むのではないかと思った。そんな些細なことを考える私のことをひとは笑うかもしれない。それでも私は、平穏にこの対話の終わる可能性を、少しでも上げておきたかった。
当日、空は驚くほど爽やかに晴れ渡った。数ヶ月前までは、こんな日曜日には直史とふたりで動物公園や川べりを散歩して過ごしたものだ。決してくずれることのない世界だと信じていたものを、私は今、決定的に打ち壊そうとしている。
彼が決めた場所は、彼の自宅にほど近いファミリーレストランだった。日曜のその時間なら客がほとんどいないから、と彼は返信してきた。そのメールを見て、実に彼らしい細やかさだと、私は寂しく笑いながら思った。
三人でコーヒーを頼んで、四人がけのテーブルを囲んだ。私の隣に温子、そしてその正面に直史がいた。座っていても、上背のある直史が背筋を伸ばすとそれだけで毅然とした存在感が生まれる。温子は見知らぬ人間を警戒する野良猫のような険しい顔をして直史を見据えている。この事態を引き起こしたのは他ならぬ私自身なのだと、わかっていても逃げ出したくてたまらなかった。
「春川さん、でしたか。初めまして、小野原です」
先に口を開いたのは直史だった。言いながら、膝の上に手を置いて小さく頭を下げた。
「春川です。――あの、どのようなご用なんでしょうか」
直史が頭を上げきるより早く、温子が畳み掛けた。間合いや駆け引きというものを知らない温子らしい切り込み方に、私はその場に不似合いな微笑ましさを感じて小さく笑った。
直史は私のその様子に気づいてちらと私を見た後、苦笑を浮かべた。
「用というほどのものはありません。あえて言うなら――こう、自分が奈緒さんにフラれたんだっていう自覚が欲しいんです」
「具体的になにをすればいいんでしょう」
「少し、話をさせていただければ。――世間話でも」
直史のあまりののんきな発言に、温子のとがった気配が少しだけやわらいだ。
「春川さん、なにかお仕事してらっしゃるんでしたっけ」
「保育士です」
「保育士って、体力勝負なんでしょう。大変ですね」
「いえ――」
「でも、驚きました。なんていうか、もっと男性的な方だと思ってましたから」
その一言で、温子はさっと剣呑な視線を取り戻した。びっくりするような素早さだった。
「私が同性愛者だからってことですか」
温子の声にこもっていたのは、私の元の恋人である直史に対する嫉妬心というよりも、同性愛者の女を奇異の目で見る男への反感だった。確かに温子に男性らしさはない。むしろ背は低く体つきも華奢で、私よりもずっと女性らしい可愛らしさをそなえている。
だからこそ、温子のコンプレックスは強かった。
「率直に言えば、それもあります。けどそれ以上に、奈緒さんが選んだ相手だから、です」
そのあまりにあからさまな敵意を、直史はまるで感じていないかのように受け流した。その冷静さと意外な答えにふいを突かれて、温子は眉間にしわを寄せることで、素直に疑問をあらわにした。
直史は力の抜けたリラックスした声音で、その疑問に答えた。
「奈緒さんは、ひとに頼ったり甘えたりするのが好きなひとだから。春川さんっていうのは、ぼくよりずっと頼りがいのあるしっかりした女性なんだろうなと想像してて。――奈緒さんの話だと、彼女よりふたつ下だって伺いましたけど。っていうことは、二十五歳?」
「ええ」
「ぼくより四つも年下だ。若いなあ」
直史はまぶしげに目を細めて、心からうらやましげに微笑んだ。
「しかも、春川さんは年齢よりもずっと若く見える」
「そうですか」
「少なくともぼくが二十五の時は、ひとの恋人を奪おうなんていう激しさは持ってなかった」
「フミさん――!」
まったく予想していなかった唐突な直史の攻勢に、私は思わず声をあげた。温子が息を飲んだ。
「ぼくはしがない会社員ですけどね、もう今の会社に七年います。それなりに将来の展望もある。妻と子供を養っていく甲斐性くらいは、これでもあるつもりです。保育士って、六十まで続けられる仕事じゃないでしょう。奈緒さんからぼくを奪って、あなたはちゃんとぼく以上に奈緒さんを幸せにしてあげられるんですか」
まくしたてる直史の声にも、表情にも、自分に対する過信や気負いはなかった。ただ、自分の持っている事実を誠実に判断した上での言葉だった。
だからこそ、私にはなにも言えなかった。正論を正しく扱う人に、道を外れた私のような人間がなにを言えるというのだろう。
温子は直史に目を向けたまま、まんじりともしなかった。私はうつむいていることしかできず、直史は唇の端に笑みの気配すらただよわせて、私たちふたりを見ている。
耐えがたい静寂が流れて、私がもうこれ以上はないというくらい首を下へ曲げきったとき、温子が口を開いた。それは、驚いたことに、直史以上に静かな、毒気のない落ち着いた声だった。
「とても男性的な考え方ですね」
その一言は、妙につよく静寂を打った。
「人ひとりが幸せにすることができるのは、自分自身のことだけです。責任を取ることができるのも、自分のことだけです。奈緒が私を選んだ責任を、私が取るつもりはありません。私が持てる責任は、私が奈緒といることで幸せになることだけです。奈緒が私といて幸せになれるかどうかは、奈緒自身の責任です」
そして温子は、ほんのりと笑った。派手さのない温子の顔立ちが、ほんの一瞬、凄艶とも言えるつやを見せた。温子は希薄な存在感の裏に、激しさも、艶やかさも、おそらくは狂気すら隠している女なのだ。その多面性に、私は否応なく引きずり込まれたのだ。
「『幸せにする』なんておこがましいことを、経済的に支えるだけで果たせると思ってらっしゃる方に、奈緒の幸せのなにがわかるんでしょう」
直史は答えなかった。ただ、場の支配権が温子のものとなったことだけは、彼も、そして私も、まぎれようもなく感じていた。
落ちた静寂は、今度はそう長くは続かなかった。
直史はもう一度苦く笑って、「女性は怖いですね」と、ごちるようにつぶやいた。
「奈緒さんの荷物、宅急便で送っておくから。奈緒さんの部屋にあるおれの荷物も、悪いけど送ってくれるかな」
席から立ちながら、直史は私を見て言った。私はその眼に、私を赤の他人として認識しはじめた優しい無関心さを見つけた。
私は黙ってうなずいた。口を開いたら、自分でもどんな言葉が飛び出すのかわからなかった。
うなずき返すと、直史は温子に向けて軽く会釈して、その場から立ち去った。残された私と温子は、互いに下を見、前を見して、決して目線を合わせようとはしなかった。
強い予感が、私の胸のうちに渦巻いている。
私は今日のことを後悔するだろう。直史との陽光あふれる日々を捨て、温子との熱く激しく、そして陰鬱な日々を選んだことを、身を引き裂きたくなるほど後悔するだろう。激情だけの恋を、私はできない。穏やかに満たしてくれる直史がいてこそ、私は恋が出来たのだ。なのに私は直史の腕を離して、誰も守ってくれる者のない海にひとり漕ぎ出してしまった。
温子と出会ってから、私のなかにあるのは混乱ばかりだ。取り乱し、慌て、嘆き、感情と思考の水嶺は際限なく上下動を繰り返してきた。諦めようとしては彼女を求め、手を伸ばしては理性という冷水をかけられた。
しかし私の取れる選択肢は、結局のところ始めからひとつしかなかった。
私はそっと温子の手を取った。彼女は恐ろしいほど強い力で私の手を握り返してきた。私はいつかこの手を払いのけるだろう。彼女も私に倦むだろう。けれど、それでも、今この時にこの手を離すことは、決してできはしないのだ。