古い茉莉花の話
 少し感傷的な話をしようか。古い話なんだ。私自身もうずっと忘れていた。それを今朝、唐突に思い出した。唐突に、本当に唐突にね。私の頭の、随分深い部分に沈んでいたと思うのに、大した浮力も必要とせずにこの記憶は浮かび上がってきた。それはもしかしたら昨日まで降り続いた雨のせいかもしれないし、あるいはその雨でできた、空がまるごと移ってしまったような広い水たまりを見たためかもしれない。もっと直接的に、昨日のワイドショーでやっていたマリンスポーツ特集で、青々とした海中の映像を見たからかもね?
 茉莉花、って知ってる? マリカ。「茉莉花(マツリカ)」と書いて「マリカ」と読むんだ。
 ちがうよ、「マツリカ」は花の名前だけど、私が言ってる「マリカ」は人の名前。とっても可愛い女の子だよ。本当に、花みたいに可愛い。知らない? 会ったことも、この名前を聞いたこともない。だろうね。そうだろう。もちろん知らないだろう。
 私が思い出したのは、その可愛い茉莉花が八歳だった頃のお話。八歳なんて、私たちから見たらもう二十年も前の話だよ。ふた昔も前だ。茉莉花と私は同い年だった。だから彼女も今年、私や君と同じように二十八歳になったはずだ。
 彼女は二十年前の夏、両親と一緒に海水浴へ出掛けた。彼女の両親はとても仲の良い夫婦で、愛情深い両親に育まれる茉莉花は誰が見ても幸福な子供だった。けどね、それはあくまでも表面的な話。両親はわが子にばれていないつもりでいたんだろうけど、夜、茉莉花が自分の部屋に入ってしばらくすると、リビングにいる両親が抑えた声で口論をするのが毎晩のように聞こえてきた。彼らの声はドアからじゃなく、夏の暑さで開け放した窓から聞こえて来たそうだよ。二階の子供部屋のちょうど真下がリビングだったんだ。真夏に秘密の話はするものじゃないね。
 そんな誤魔化しまみれの両親ではあったけれど、とにかく茉莉花の前で諍いをしたことは一度もなかった。子供を想っていたとも言えるし、そとづらを強烈に気にする人たちであったとも言える。その完璧な二面性は、かえって茉莉花を苦しめた。不穏な気配を漂わせる夜の会話とその翌朝に彼らが浮かべる日々変わらない作りものの笑顔は、幼い茉莉花が自覚する以上に彼女に重苦しくのしかかっていた。
 他人の目に対して自分たちを取り繕うことを忘れない彼らは、茉莉花をよくレジャー旅行に連れ出した。山であったり遊園地であったり、時には海外に出かけることもあった。実に多くの場所を、茉莉花は小さい時から両親とともに訪れた。それらの旅行が果たして茉莉花にとって幸せなものだったのかはわからないけれど、少なくともその夏の海水浴の予定に関して言えば、茉莉花は真実心を踊らせて待ち望んでいた。茉莉花は泳ぐのが好きだったんだ。
「茉莉花、あんまり沖にでちゃだめよ」
 理想の母親そのものの口調で穏やかに微笑む彼女に、茉莉花は小さく頷いて返事に代えた。割り振られた無邪気な子供の役を素直に演じてやれるほど、茉莉花は大人じゃなかった。幸福な家庭という茶番を担う一役を求められていることに気づかないほど、子供でもなかった。
 茉莉花は砂に足を取られながら波へ向かって駆けた。その勢いのまま海へ飛び込んだ。
 茉莉花は自分の持つ泳ぎの能力にプライドを持っていた。通っていた水泳教室では上級クラスの子供たちに混じっても決して引けをとらなかったし、先生にものぼせるほど誉められた。だから茉莉花は過信したんだ。八歳になるその年まで、波打ち際で遊ぶことはあっても本格的に海で泳ぐことはなかった。なのに茉莉花は、初めて泳ぐ海で自分が溺れる可能性を、一片たりとも考えなかったんだ。
 あえて浜辺から遠ざかるように泳いだのは、両親の下から去ってしまいたい気持ち、両親の目の届かない場所へ行ってしまいたい衝動が茉莉花のなかにあったからなのかもしれない。ためらいも恐怖もなく、茉莉花は一心にぐいぐいと泳ぎ進んだ。それでもね、いくら海で泳ぐのが初めてだとはいえ、防波堤内の穏やかな海であの泳ぎの達者な茉莉花が溺れるはずはなかったんだ。彼女と出会いさえしなければね。
 茉莉花は浜辺から四十メートルも離れると、潜水を始めた。茉莉花にとって、塩素の臭いのしない水で泳ぐのは初めての体験だった。そんな茉莉花の興味は、ただ泳ぐことでなく水泳場のプールにはない深さに向かったんだ。息が続く限り底を目指して垂直に潜る。二メートル足らずで底に手の触れるプールと違って、海の果てはずっと遠くにおぼろげに存在がわかるだけだ。八年という彼女の人生では見たことのない景色だった。彼女を取り囲む日常とはかけ離れた世界だった。両親という現実に倦んでいた茉莉花が強く惹かれたのもわかる話だ。
 茉莉花はその場で、潜っては浮かびを繰り返した。慣れてくると、潜っていられる時間が伸びてくる。潜っては浮かび、潜っては浮かび、そしてもう何度目の潜水だかわからなくなった頃、茉莉花は水のなかで自分とそう歳の変わらない少女と出会った。
 醜い少女だった。童話に出てくる醜女のようにあざや曲がった背骨といったわかりやすい醜さの証はなかったけれど、およそクラスメイトの心ない男子からはブスだデブだとからかわれ、女子からは憐れまれるか蔑まれるかしかないだろうという相貌だった。視界のきかない水中で見ても、情けなく垂れ下がった太い眉と恨みがましげなふたつの眼が印象的だった。髪は男の子のように短くて、水の中にいても大してそよがず顔の周りを緩慢に漂うだけだった。
 重ねて言うけれど、茉莉花はとても可愛い女の子だった。学年一人気のある男の子との噂が自然とささやかれるような、そしてその釣り合いの取れたカップルに誰もが納得してしまうようなね。
 茉莉花もそんな自分の見栄えの良さを自覚していた。だからもちろん、容姿をもてはやされる子供にありがちな抑えきれない傲慢さも備えていた。責めるほどのことじゃない。子供っていうのは、人に褒められる喜びに素直で貪欲なものだ。
 さて、そんな茉莉花の前に、お世辞にも整っているとは言いがたい顔立ちの少女が現れた。茉莉花の心に、少女に対して優位を誇る気持ちが一瞬で持ち上がる。自分に劣るこの少女は自分に服従すべきであるという強烈な意識もね。
 けれどね、その少女は茉莉花からふいと目をそらすと、なにごともなかったかのように水のなかをすうっと泳ぎ去ったんだ。それは茉莉花のプライドを妙に刺激する動きだった。茉莉花は少女に、私ほど上手に泳ぐことはできないだろうと馬鹿にされた気がしたんだ。もちろん少女は、そんなことは一言も言っていないのにね。
 茉莉花は少女を追って泳ぎだした。少女の体は茉莉花よりもずっと小さく、手足の動きもどこかぎこちなかった。実際のところ、少女は決して泳ぎが得意なわけではなかったんだ。後になって茉莉花は知るのだけど、少女は泳ぎに限らず、運動全般が不得手な体の持ち主だった。
 最初はそれなりに遠くにあった少女の姿が、茉莉花がひとつ水を掻くごとに近づいてくる。少女はやがて茉莉花の目前にまで迫る。そこで茉莉花は少女の足首を、彼女が近づく茉莉花に気がついていない可能性など考えもせず、ぐいとつかんだ。
 子供ならではのあさはかさだ。海を泳いでいるさなかにいきなり足をつかまれたら、大人だってパニックを起こすだろう。少女は茉莉花の指が足首にまわった瞬間、茉莉花が想像もしなかった激しさで暴れだした。海の事故は怖い。少女の足が茉莉花の胸を蹴った。水で勢いの殺された一蹴りに大した威力はない。けれどその時点で、茉莉花はもうずいぶん長いこと海に潜りっぱなしだったんだ。肺に溜め込んだ空気は既に尽きかけていた。思わぬ暴れぶりと突然の衝撃に驚いた茉莉花は、かろうじて残っていた酸素をすべて吐き出してしまった。茉莉花は足をつかまれた少女以上に混乱して、そのまま意識を遠のかせた。
 けれどね、結果的に海のなかで気を失った茉莉花は無事助かった。いや、どうかな。助かったと言えるのかな。君はどう思う?
 砂浜に寝かせられた茉莉花はじきに目を覚ました。彼女の瞳が最初に映し出したのは、一組の見知らぬ夫婦が泣きながら自分の顔を覗き込み、初めて聞く耳慣れない名前を繰り返し叫ぶ様子だった。
 状況を理解できない茉莉花は怯えた。周囲にはその夫婦の他にも何人かの大人がいたけれど、両親の姿は見えなかった。そして自分の体を見下ろしてね、ほっそりとしていた自分の手足が、ぶくぶくと脂肪をつけていることに気がついたんだ。肩に降りかかるしなやかな髪の感触がないことにも気づいてしまった。そしてその後、茉莉花は鏡のなかに、海中で出会ったあの醜い顔を見た。なにが起こったのか茉莉花にはわからない。とにかく、海から引き上げられた時、茉莉花はもうすでに茉莉花ではなくなっていた。周囲に彼女が茉莉花だとわかる人間は誰一人おらず、茉莉花という女の子を知っている人もいなかった。
 一時は気が触れたようになったよ。自分の記憶も存在も、一切を信じられない恐怖。その恐ろしさは、君にはちょっとわからないだろう。私にはわかるのかって? わかるさ。わからないわけがないだろう? 君にはまだわからないのかい。言っただろう、これは今朝、私の意識に蘇ってきた、私の古い思い出話なんだよ。
 茉莉花の体もね、きちんと息のある状態で引き上げられたそうだよ。でも私は、茉莉花の体がその後どう暮らしたのかは知らない。海から上がった時点で、私のなかの茉莉花としての記憶はすでに霞のかかったようにあいまいになっていた。はっきり覚えているのは茉莉花という名前と愛らしかった顔かたちだけ。両親の姿すら、会いさえすればわかる自信はあるのに、記憶としてはあいまいだ。電話番号も、住んでいた街の名前も出てこない。八歳の子供が、どうやって周囲にそんな事態を理解をさせられると思う? 私はそれきり、茉莉花としての生涯から永遠に切り離されたんだ。
 今ね、私は茉莉花の顔をした女に会ってみたくて仕方がないんだ。きっとその体のなかには、海で出会ったあの少女がいるだろうからね。そして訊ねてみたい。多少険悪だとはいえ、裕福で穏やかな両親と、そしてあの世にも愛らしい容貌を手に入れた気分をね。もちろん引き換えに、私がこの体で過ごした泥のような二十年を、とっくりと話してあげるつもりだよ。