蝶の下( 1 )
 蝶が飛び去って現れたのはわたくしの顔でございました。その体は一面を覆う落葉の上に横たえられ、無数の蝶にうずもれておりましたのです。蝶はわたくしの立てた気配に驚いて一斉に飛び立ち、あたりに幾百幾千とさんざめきました。どの蝶も翅がつけ根の白藤色から裾の茄子紺にかけてうそのように可憐に色づいて、大きさは庭でよく見るシジミ蝶よりさらに小さく、全体にまろく愛らしい形をしておりました。
 始めは森を歩いておりました。寒い、しんとした冷気の漂う森でございます。わたくしは白い単衣をまとったきりの格好で、胸の底がひえびえとするような、ひどく寄る辺ない心地がいたしました。踏み分け道すらない森の中でわたくしは密に育った樹々の間を縫い、裸足で腐りかけの落葉を踏み、幹に手をつき枝につかまりしながら、どうにか歩いておりましたのです。もうこの歳ですから、常であれば百歩歩いても息が切れるのです。だというのに、その時のわたくしは荒れた森をどれだけ進んでも一向に疲れを覚えず、それは楽といえば楽でしたが、それよりも手応えのない我が身が頼りなく、心細さを増長させました。
 森は濃く立ち込めた霧に満たされておりました。視界は利かず、一歩進むごとにすぐそこにふいと黒い幹が現れるのです。霧はわたくしの着ていた単衣と同じ色をしていて、衣が霧を生んでいるような、霧に衣が溶けてゆくような、妙な気持ちがいたしました。歩き続けるうちに、心なしか衣が薄くなってゆくようにも思います。けれど、それでは一瞬前にこの衣がどれほどの厚みを持っていたかと思い返すと、わたくしにはもうそれがわからないのです。まわりの霧がわたくしの頭の中にまで入り込んで、今見えているもの、今触れているもの以外はすべて隠してしまうようでした。
 霧と樹々の他には何もない場所でございました。獣の吠え声や鳥の一鳴き、虫のさざめきといった木立であれば聞こえて当然の音の一切もございません。霧の白と樹々の黒ばかりに取り囲まれて、わたくしはただそうするのが当たり前のように思えるからというだけの理由で、ひたすらに歩を進めておりました。
 そうして歩くわたくしの前を、なんの前触れもなく一匹の蝶が過ぎりました。紫色の小さな蝶です。それはわたくしがその森で最初に目にした生き物であり、色彩でございました。
 蝶を見て足が止まります。蝶はゆっくりとわたくしの前を横切って、上へ下へと不規則にゆらめきながら、小さな翅を忙しく動かしていずこへか飛んでゆきました。蝶の姿を追って、わたくしは首を左から右へと巡らせました。どこを向いても何一つ変わらないその森で、蝶はわたくしに初めて方向というものを示したのです。
 蝶の放つ柔らかくも鮮烈な紫は、すぐに濃密な霧に呑み込まれて消えてゆきました。白に紫の点が溶けるのを見届けても、わたくしはその場を動きませんでした。予感のようなものでしょうか。わたくしがそこでしばらく待っていると、また左手から、ついさっき見たのと同じ種類の蝶が現れました。まるで一匹目の蝶の軌跡を再現するように、二匹目もまた霧の彼方へと消えてゆきます。わたくしはそれを、一匹目と同様首をめぐらして見送りました。
 彼女たちの動きは決して誘うようではございませんでした。一心に、自分の向かうべき場所が確かに行く先にあると信じるように、霧の彼方へと飛び去ってゆくのです。
 何匹もの蝶が飛んできましたが、ひっきりなしにというのでも、群れ飛ぶというのでもございません。一匹が現れて消え、しばらくするとまた次の一匹が現れて来るのです。わたくしと蝶は幾度も交差を繰り返しました。
 何匹目のことでしたか、数えていたわけではございませんからわかりはしませんが、わたくしは右に回した首を戻さずそのまま蝶を見据えて後をついてゆきました。その一匹がそれまでの蝶たちとどこか違っていたわけではございません。何故その蝶を追ってみる気になったのか、わたくし自身にもわからないことでございます。
 剥き出しの足を右へと踏み出すと、霧の冷たさがほんの少し深まったように感じました。しかしそれはきっとわたくしの気の迷いであったろうと思います。目の前を蝶が先へ先へと飛んでゆく以外は、つい先程までと何の変わりもない霧に沈んだ森の景色でございました。
 さほど歩いたとは感じません。森の様子も変わりなく、白い霧のなかから黒い幹が現れては消える、飽きるほど歩き続けてきた同じ森でございます。しかしそのなんの変化もない場所で、蝶はふっと消えました。見失わないように目を凝らして追っていたのに、蝶はいともあっけなくかき消えてしまったのです。
 たった一匹の蝶が見えなくなって、わたくしは急に心細さを感じました。そこでわたくしは、自分が知らず知らずのうちにあの紫の色合いに大きく心を支えられていたことに気がついたのでございます。周囲の樹々が急に太く大きく伸びてわたくしを押し潰そうとするように、また霧が密度を増してわたくしの息を詰まらせようとするように感じました。
 わたくしはそれまでにない気早な動きで足を踏み出しました。不確かな足元に気を払わず、蝶をまた視界に入れようととにかく前に進もうとしたのでございます。そして、太い根に躓きました。あっと声を上げる間もなくわたくしの体はその場に倒れ、じっとりとした落葉の感触が単衣を通して伝わりました。
 倒れながらわたくしは、視界の端で蝶の一斉に飛び立つのを見ました。それまで少しの気配も翅音もなかったのに、わたくしの視界をすべて埋め尽くさんばかりの千とも万ともつかない蝶々が、ほんの十歩足らず先の地面から唐突に現れたのでございます。白藤と茄子紺が重なりあって、背筋のぞっとするような、頭の痺れるような美しい模様を描き出しました。
 けれど、その幾何学的な模様を描く動きは一瞬のことでございました。どうと倒れ伏したわたくしが慌てて半身を起こしても、そこには出鱈目に飛ぶ蝶の群れがあるばかり。先程のような秩序立った飛行はございませんでした。
 そこでわたくしは、自分の顔に対面したのでございます。
 群れ飛ぶ数多の蝶の下で、その体は横わっておりました。わたくしが着ているのと似た単衣に包まれて、胸の上で両の手を合わせ、その体は命を喪っているようでありました。その姿を見て、これはわたくしだ、と思いました。恐ろしくはありませんでしたが、突然の邂逅に胸底がさわさわと波立ちました。息を大きく短く吸い、わたくしは知らず目を閉じました。
 そして数秒を置いて再び目を開けた時、わたくしはそれが、自分ではないこと気がついたのです。息を飲んで見つめた先にありましたのは、わたくしの姉の顔でございました。