蝶の下( 2 )
 姉とわたくしはよく似た姉妹でありました。わたくしたちは歳が十五離れ、しかも父が違います。姉は母が前夫との間にもうけた子供でしたのです。けれど歳の差を超え、胤違いという血の薄さも超えて、わたくしたちは一目で姉妹とわかる顔かたちをしておりました。
 わたくしの面立ちがはっきりし始めた頃には、両親を訪ねて家に来る人々は口をそろえて「とき子さんはお姉さんによく似てらっしゃるのね」とどこか感嘆するように仰っておりました。物心つく前から、わたくしは姉に似ている、似ていると言われ続けて育ちましたのです。
 仲の良い姉妹であったと思います。幼いわたくしには無口な父がどこか恐ろしく、家の用事の一切を粛々とこなす母もなにか近寄り難い存在で、またもののまだよく分からない子供には半分の血の繋がりなのだという事実もあまり大きな意味を成さず、わたくしは姉の後ろばかりをついて歩いて育ちましたのです。
 姉もまた、そんなわたくしに優しくして下さいました。けれど、それほど愛し愛されていながら、わたくしの記憶に肝心の姉の顔は残ってはおりません。声や、つないでくれた手の温度や、眠る前に頭をなでてくれた感触などは覚えているのに、顔だけがわたくしの記憶の中で曖昧なのです。それは姉と別れた時にわたくしがまだ幼かったからでしょうか。姉が他界したのは、わたくしが数えで七つになった年の暮れでございました。
 十二月に入りもうじき雪も降ろうかという夜に姿が見えなくなり、翌朝隣町の川の淀みで見つかったのだと聞かされております。わたくしたちの住む町の橋から身を投げて、そのまま流されて行ったのだろうと誰かが話すのを聞いた気がいたします。
 報せの電話を受けたのは母でございました。早朝の電話を受け、母は表情の消えた張り詰めた顔で受話器を握り締め、見えるはずもないのに大きく幾度も頷きながら、向こうから届く声に耳を傾けておりました。その脇で固唾を飲んで見守る父は母の顔を食い入るように見つめておりました。その目の恐れるような色合いが、幼いわたくしには激しい驚きでした。寡黙な父が恐れなどというものを表したのはその時きりでしたと思います。母が受話器を置くと、涼やかなチンという音が場違いに響きました。母はすぐ側に佇む父に振り向き、父の怯えた瞳を貫くように見据え、きっぱりと首を振りました。常に父に従順であった母がその時だけ父に対し憤るような、蔑むような目をしたことも、忘れがたく瞼の裏に焼きついております。
 姉の訃報は、当時のわたくしには理解のし難いことでございました。ねえさまと呼びかければいつでも微笑んでくれた姉が、つい半月前には七五三のお祝いにと初めてわたくしの唇に紅を差してくれた姉が、もう二度とわたくしの手を握って下さることもお手玉を教えて下さることもないのだと、そういうことの一切が、その時のわたくしにはわからなかったのです。
 姉は棺に入ってわたくしたちの家に帰って参りました。その白っぽい木でできた四角い箱が姉を示すものなのだと、やはりわたくしにはわかりませんでした。
「ねえさんは、どうして箱に入ってしまったの」
 母の喪服の裾を引くと、母はわたくしを見下ろし、それから大義そうにわたくしの頭に手を置きました。
「ねえさんに、会わせて」
 今ふりかえれば愚かしいことだと思います。その時のわたくしは、姉に会いさえすれば、わたくしが姉を起こして差し上げることができると思っていたのです。はっきりそうとは考えていずとも、姉がこのまま永遠に目を覚ますことがないなどということは、決して信じてはいなかったのです。
 母はそんなわたくしを見下ろしたまま、首を一度振りました。
「ひさ子にはもう会えないの」
 何もわからずにいるわたくしを心から哀れむような声でございました。
 通夜でも葬儀でも、姉の棺は一度として開けられることはございませんでした。父と母とわたくしの他には、祖母や父の兄弟といったごく近しい親族が集まっただけの寂しい葬儀でございました。わたくしが初めて参列したのは姉の葬儀でございます。人が死んだ時にはああやってほんの何人かの人間でひっそりと送るものなのだと幼心に思いましたから、年を経て祖母が亡くなった時には、お葬式があんまり立派で驚いたものです。姉とはなぜお別れもさせて貰えず、また世間に隠れるように侘しい葬儀であったのか、その理由がわかったのはそれからまた数年が経ってからでございました。一晩河に浸かった姉の体はどのような姿に変わり果てていたのでございましょう。我が子をみすみす死なせてしまって、両親はそれをどれほど恥ずかしく思っていたことでしょう。
 姉が亡くなってから、わたくしは時々、応接間に入り込んでは飾り戸棚の上に置かれた我が家の家族写真をためつすがめつ眺めるようになりました。その写真は、わたくしの知る限りで姉の顔がはっきりと写った唯一の写真でございました。今思えば仏壇に遺影のひとつもないのはおかしな話ですが、世間を知らないわたくしはそれを奇妙に思うことすら出来ませんでした。
 写真立てに入れられた写真の中では、まだ赤ん坊のわたくしを抱えた母が椅子に座り、後ろに父が立ち、その隣に姉が並んでおります。黒髪に縁どられた真っ白い相貌が写真機を見つめております。
 どこか緊張した風の姉は、美しいひとでございました。すっと通った鼻筋と黒目がちの瞳が印象的で、薄いけれどかたちのよい唇はきゅっと引き締まり、桜色に色づいているのです。
 今となっては想像するしかできませんが、その頃のわたくしはまだ、生前の姉の顔を覚えていたのではないでしょうか。それを、幾度も写真を見返すうちに写真の中の姉の顔で塗りつぶしてしまったのではないでしょうか。あんなに何度も写真を覗き込まなければ、たとえおぼろげにでも姉の生きた表情を今も思い出すことができたかもしれません。わたくしは愚かなことをしたのでしょうか。言っても詮無いことだとはわかっております。なにより、姉を偲ぶよすががすぐそこにありながら、それに目を背けていることなどわたくしに出来たはずがございません。
 写真に写る姉をじっくりと見分してから、わたくしは飾り戸棚のガラス戸に映る自分の顔に目を移します。その習慣は長く続きました。写真の中で姉は変わらぬ年齢を保ち、わたくしは年々、写真の中の姉の歳に近づいてゆきます。幼い頃にはわからない事でしたが、写真に写る姉の年齢に近づけば近づくほど、確かにわたくしの顔は姉に似てゆくのです。わたくし自身が見てさえ、そこに写っているのは姉なのか、わたくしなのか、ふとわからなくなることがあるのです。眩暈のような戸惑いが、写真を覗き込むわたくしを襲います。まるで姉の見目がわたくしに取り憑いてゆくようだと考えたことがございました。頬骨の薄いところ、弓型の眉の形、瞳、唇。唯一父に似た上向きの少し不恰好な鼻を除けば、わたくしの顔はどこをとっても姉を思い起こさせました。わたくしは鏡を覗き込むたび、そこに姉の姿を見るのでございます。
 応接間に入り込むわたくしのその行いに両親は気がついていたでしょうか。まったく知らなかったということはないだろうと思うのです。けれど、わたくしが両親からこの習慣について言及されることは、結局一度もございませんでした。写真の中の姉の歳を追い越した頃から、この奇妙な儀式の回数も次第に減ってゆきました。
 今でも時折思い出すわたくしの一番古い記憶は、姉の背に負われているものでございます。朝でしたでしょうか、日暮れ時でしたでしょうか、わたくしは姉の背から真っ赤な空を見つめております。「とき子ちゃん」と姉がわたくしを呼びます。「とき子ちゃんはいい子ねえ」と、姉は優しく、そしてどこか哀しく、前を向いたままわたくしに声をかけるのです。姉に負ぶわれて、その頃のわたくしは三歳になるやならずやでしたでしょうか、無心に赤々とした太陽を眺めておりました。わたくしが三つとすれば、姉は十八かそこらの年頃の娘でございましたでしょう。
 その時姉はわたくしに尋ねたように思います。
「とき子ちゃんは母さんが好き?」
 声がとても小さくて、姉はもしかするとわたくしに聞かせるつもりがなく、それは独り言に近いものであったのかもしれません。わたくしはその問いにどう答えたでしょう。聞こえないふりをしたでしょうか、それとも何か、きちんと答えを返したでしょうか。わたくしはそれを、どうしても思い出すことができないのです。そもそも姉は、本当にわたくしにそんなことを尋ねたのでしょうか。
 それがわたくしの一番古い、そして姉にまつわる最も鮮明な記憶でございます。