蝶の下( 4 )
 姉とわたくしを見比べて「よく似た姉妹なのねえ」と微笑んだ人々のうち、幾人かは側に控える母にちらりと視線をむけてふと怪訝な顔をされました。
「あら、でもお母様とはあんまり似てらっしゃらないみたい」
 その疑念を初めて言葉にして表したのは父の姉である佳枝伯母であったと思います。言われた母は一切の間を置かず、佳枝伯母に如才ない笑みを返しました。
「ふたりとも、私の祖母に似ているんです」
 醜女というのではありませんが、離れ気味の目元やぽってりとした唇を持つ母は、確かに姉の上品な顔立ちとは似ても似つかぬ容貌をしておりました。母は言葉を続けます。
「寂しい気もしますけれど、私に似なくって良かったのかもしれないですわ」
 一昨晩、九十を前にして往生した父の棺には、溺れるほどの紫陽花が執拗に詰め込まれました。母が庭に咲いた紫陽花を手ずから切り集めたのです。
 母はわたくしに聞かせるでもなく、紫陽花を機械的に敷き詰める手を休ませず呟きました。
「とき子は覚えてないかしら。ひさ子はね、紫陽花が好きだったのよ。あの子が死んだのは真冬だったから紫陽花は入れてあげられなかったけれど、こうしておけば、この人がきっとあちらでひさ子に渡すでしょう」
 母の声は静かでしたが、その目は姉の死を父に知らせた時と同じ色をしておりました。穏やかに思い出を語る声音をしながら、瞳には蔑む色を宿らせているのでございます。
「庭の紫陽花はね、ひさ子が生きていた頃は、すべてあの子が世話をしていたのよ」
 記憶は無軌道な跳躍を続けます。天袋の奥に仕舞われていた缶箱から母と前夫の婚儀の際に撮ったらしき親族写真が出てきたのが三年程前のことでございました。わたくしは瞬間的に、姉とわたくしがその容姿を受け継いだという祖母の姿を探しました。しかしそれらしき人は見つけられません。代わりに、母の横に座る男性に逆らい難く目を引きつけられました。姉の父であることが一目でわかる、上品な顔立ちの立派な美男子でございました。姉によく似ている彼の顔立ちは、もちろんわたくしとも似通った顔でありました。
 血の繋がりを持たないわたくしと母の前夫が何故こうも似ているのかと訝り、わたくしは前夫の忘れ形見であったのだろうかと疑い、ならばわたくしのささやかなコンプレックスの源であった父似の不格好な鼻はどこから混ざりこんだのかと不審が募り、そんなことを考えるまでもなく、わたくしが生まれる五年も前に母の前夫は亡くなっているのだと思い出しました。
 その時に感じたのは戸惑いや混乱ではなく、むしろ深い納得であったように思います。そしてようやく事実がはっきりと明かされた安堵と、さらにその安堵を遥かに上回る恐ろしさでございました。
 姉妹がふたりして父母より祖母に似るなどということがあるものかと、わたくしはもう何十年も、そうあざわらうわたくし自身の声に耳をふさいで生きてきたのでございます。父を恨みの目で、娘の棺をも憎むような目で見る母を、わたくしははっきりと見たのです。あの赤い太陽の前で、姉はわたくしに「母さんが好き?」と尋ねました。何故、普段はお母様と呼ぶ母のことを、あの時一度だけ姉はお母さんと言ったのでしょうか。
 長年わたくしの中でとぐろを巻いていた疑念とその答えが一時に襲い来るのを感じながら、わたくしは写真の入った缶箱の蓋を堅く閉めました。そして次々浮かぶ真実らしきものにも同じように蓋をしましたのです。わたくしはかりそめでも穏やかな変わらぬ日々を望んだのです。いかようにしても事実は変わりません。しかしだからといって、いまさらすべてをつまびらかにしてそこにどんな得がございましょう。わたくしはそのまま忘れ去ってしまうつもりでいましたのです。
 なのに父の棺に姉が愛したという紫陽花を入れる母の姿が、女があけすけに男を憎むあの目が、わたくしの盲目であろうとする努力を簡単に吹き消してしまいました。今年はもう、わたくしの家で紫陽花は咲きませんでしょう。母はすべての花の首を落としておしまいになりました。
 また唐突に、わたくしは七五三のお祝いの朝を思い出します。わたくしの唇に紅の筆を滑らせながら、姉はどこか誇らしげに微笑んでおりました。
「とき子ちゃんが無事に七つのお祝いできて、姉さんほっとしたわ」
 物静かであった姉がより一層の静寂をまとうようになったのはその翌日からであったと思うのはわたくしの思い過ごしでしょうか。いいえ、そんなはずはないのです。きっと姉はその身の静けさがついに極まった夜に橋から身を投げたに違いないのです。「七つまでは神のうち」と申しますね。姉がわたくしと過ごした歳月は、わたくしが神のものから人の世のものへと移るのを待つ日々でしたでしょうか。わたくしの存在は姉の死期を引き伸ばしましたでしょうか。それともわたくしが七つになる前に神の元へ帰ってしまえば、姉は周囲にまとわりつかせた静寂を霧散させることができたでしょうか。
 わたくしは霧の満ちる森におりました。わたくしが手を引き戻してすぐに蝶は姉の顔へと舞い戻り、またすっかり紫陽花の花になって繁っております。目前に横たわる紫陽花に包まれた体は姉のものです。そしてまた父のものでもありましょう。
 けれど、紫陽花の花に埋もれて最初に葬られるべきはわたくしではなかったでしょうか。
 今一度、頭の中のすべてをこの森に満ちる霧でいっぱいにしてしまいたいとわたくしは希いました。何も知らず、何も考えず、真実と呼ばれるもののすべてに目を瞑り、母を母と呼び、姉を姉と慕う日々に戻りたいと願いました。
 しかしそれは叶わないのです。霧のずっと奥から白光が眩しく差してまいりました。それはカーテンの隙間からわたくしの部屋に差し込む暁光です。そして事実を隠すことを許さぬ純粋過ぎる白日です。
 姉が逝き、父が旅立ち、我が家には母とわたくしだけが残りました。日の入る白い自室でわたくしは目覚めます。そしてこれから、母と呼べぬ母とふたりきり、暮らしてゆくのでございます。