蝶の下( 3 )
 転んだわたくしに驚いて方々に舞い飛んだ蝶は、わたくしが半端に身を起こしたまま声を上げもしないからか、じきにまた姉の体へ舞い降りて参りました。小さく愛らしい蝶々がどこか慕わしげな、姉の周り以外にいるべき場所はないとでもいうような迷いのない動きで姉の体に群れてゆきます。
 数歩先に横たわる体に目を引きつけられ、わたくしはまんじりともせず姉の亡骸に見入っておりました。幼いわたくしがどれだけ願ってもまみえることの叶わなかった、姉の遺体でございます。白い単衣は姉が生涯着ることのなかった白無垢を思い起こさせましたが、しかしそれは決して嫁入りの姿などではなく、紛れもなく死出の装いでございました。胸の下でこわばった手を合わせ、その上には数珠が添えられ、写真で見せていたのとも違う、血の気の失せた青白い顔をしておりました。
 姉の体が蝶の愛する蜜そのものででもあるかのように、蝶は姉に引き寄せられてゆきます。何故こんなにも愛らしい蝶が遺体になど群がるのでしょう。わたくしにはそれが不可解でした。もしこれが禍々しい黒アゲハででもあったならば奇妙に思うこともなかったでしょう。けれどその小ぶりで上品な蝶たちは、遺体に対してあまりに不釣合いなように感ぜられたのです。
 しかしそんなわたくしの違和感は置き去りに、蝶は姉の体をまたたく間に覆ってゆきます。蝶に愛されるように、あるいは蝕まれるように、姉はその体をくまなく包まれてしまいました。姉の顔がわたくしの視界を去ります。わたくしの前にあるのはもはや人型に集まって蠢く無数の蝶の群れでございました。幾重にも重なった蝶たちは、一度姉の体を覆ったが最後、どれだけ翅をはためかせても二度と姉の姿をかいま見せはしませんでした。
 姿が見えなくなると、わたくしは急に恐れを覚えました。なにか、人型に群れた蝶の下にあるものが異形のものであるかのような恐怖がわたくしを襲ったのです。つい先刻まではっきりと目にしていた姉の遺体が、青虫が蛹になって殻のなかでどろどろに溶けるように、蝶の覆いの下でなにか別の不気味なものに変わってゆくように思えたのです。
 蝶など追わなければよかった、あのまままっすぐに歩き去ってしまえばよかった、そもそもなぜわたくしはこんな森になど来てしまったのかと、幾つもの後悔が渦を巻いてわたくしの胸中を巡りました。
 姉に群がる蝶は、その不規則な運動をゆっくりと止めてゆくようでございました。忙しなくはためいていた翅が次第におとなしくなってゆき、やがてすべての蝶が、眠りに落ちたようにまったく動きを見せなくなりました。
 わたくしは自分の頭がにぶってゆくのを感じました。先から頭の中に入り込んでいた霧が微風に追われるように少しずつ散り消えてゆき、しかし霧の去った後には、何も残ってはおりませんでした。ただ乳の色をした空白が、ぽっかりと意識を埋めているのでございます。腐りかけの湿った落葉の上に倒れ込んで、わたくしの目はぼうと蝶の群ればかりを見ておりました。菫のような、桑の実のような、菖蒲のような色の蝶の群れです。どの蝶も等しく同じ色と形をしているのに、そのすべてが重なると、不思議なことにこの世の紫のすべてがそこにあるかのようにとりどりに見えてくるのです。蝶はなぜ、あれほど静かに止まっているのでしょう。何かに夢中になるように、子供が好物の食べ物に無心に取り組むように。
 先ほど蝶を舞い散らせてしまったわたくしは、今度は決して蝶を驚かせぬよう、息を殺してそっと彼女たちに近づいてゆきました。その紫色をした塊に恐ろしさを感じながら何故わたくしは近づこうなどと思ったのでしょう。わかりません。わかりたいという気もいたしませんでした。ただわたくしは、蝶に隠されてしまった顔をもう一度確かめたいと思ったのです。
 立ち上がることもせず、這いずるように姉の側へと近寄りました。手で触れられるほど近づくと、わたくしは姉を慕って飛び回っていた小さなあの蝶たちが、今は折り重なった紫陽花の花となっていることに気がつきました。葉もなく、茎もなく、あの鞠のようにこんもりと繁った萼と花とから成る部分ばかりが積み重なっていましたのです。
 紫陽花の萼であったから蝶の翅はあんなにも小さかったのだと、わたくしは何の疑いもなく得心いたしました。蝶は死体に群れる。群れて繁って紫陽花になる。それはごく当たり前の自然の摂理であると、その時のわたくしは簡単に呑み込んだのです。
 姉の顔が埋まっているとおぼしきあたりに、わたくしはそっと両手を近づけました。紫陽花を取り上げようとわたくしの手が萼に触れました。と、紫陽花は蝶になって、またぱっと飛び散りました。わたくしの掌を、手の甲をくすぐりながら、紫陽花は蝶になって飛んでゆきます。紫陽花の繁みに潜ってゆく端から、わたくしの手は紫陽花に見放され、剥き出しにさらされます。わたくしの体は紫陽花に触れることを許されないのです。
 紫陽花に差し込んだ手の周りから蝶はすぐに消え、遺体の顔があらわになりました。それは先程見たのと寸分も変わらない、やはり姉のものでございました。その顔を見て、わたくしは自分が花の下に何を求めていたのか気がつきました。わたくしは、蝶の下から再び現れる顔がわたくしのものであればよいと願っていたのです。最初にわたくしがこの顔を自分だと思ったのは、そうであればよいというわたくしの願望のためでしたのです。
 わたくしは最前と変わらず現れた姉の顔を見て、差し伸ばしていた手を我が身に引き寄せ、その手に顔をうずめました。そして泣きました。何が悲しいのか自分でもわからないまま、涙もなく泣きましたのです。喉を嗚咽が突いて、森に入って初めて、わたくしは声を上げようとしました。
 そしてまさにその一瞬に、空っぽになっていたわたくしの脳裏に四十年足らずの生涯のうちで目にし耳にした姉にまつわる事どもがはじけるように脈絡なく去来いたしました。