メモ
2014.01.26
 『パリ、ただよう花』を観た。
 教師という職を持ち、恋人を追ってパリへ渡った中国人の花(ホア)。しかしパリについた早々こっぴどく恋人にふられ、路上で会った行きずりの男とセックスし、そのままその男と恋人同士となる。ホアは大学に通うインテリで、出会った男・マチューはマルシェの組み立て・解体を行う肉体労働者。
 生活レベルの違いというのは、人間関係において、残念ながら決定的だ。何もかも対極のふたりは、しかし体でだけつながり合う。

 ホアが愛を求めているようには見えなかった。ただ、自分の内部に常に巣食うむなしさ、居所のなさ、救いのなさを消し去る方法を探し、世間の皆が口をそろえて「愛があれば幸せだ」と言うから、自分が求めているのもまた愛なのだと思い込んでいる。そう見える。
 しかしホアは人と距離を縮める方法を知らないのだ。だから愛を求めようとすると、体をつなげる方法しかわからない。マチューは嫉妬深く独占欲の塊で、ホアの愛を確かめようとさんざんな手を尽くす呆れた男だけれど、しかしそれでも、マチューはホアの彷徨の犠牲者でしかない。

 ホアとマチューの始まりがレイプに見えるとしたら、その人はたぶんとてもまっとうな生き方をしているのだろうと思う。あの場面で、一番戸惑っているのはマチューだ。それはホアに原因がある。ホアは傷ついているが、それは決してマチューの行為にではなく、恋人にふられたその日に他の男に体を埋めさせている自分自身についてなのだ。

 と、書き綴ってみたけれど、これはたぶん映画の感想にはなっていなくて、私がホアに自分自身を投影した結果だと思う。
 この映画にはモノローグがない。いくらでも叙情的にもメロドラマ風にも書けるだろう題材でありながら、そういう要素は一切排除されている。ホアの内面は見えない。だから私は、ホアに自分自身を強く投影してしまう。これは共感でも感情移入でも決してない。ただホアの行動が私に似ているから、かえってその内面を見通すことができず、ホアの存在はガラスではなく鏡となって、私の内面をあまりにくっきりと映し出す結果になってしまう。
 それほどまでに、この映画にホアの真意は見えない。(ホアに行動の似ている私には特に、ということになってしまうので、他の方が観た時の感じはわからないけれど)

 ホアが常に自身に内包するより処のなさ。どこにいても「ここではないどこか」「この人ではない誰か」を求め続ける性根。人は愛されることでは満たされない。たったひとつのこの事実が、ホアの彷徨を救わない。