メモ
2015.08.09
『サラの鍵』、『めぐりあう時間たち』をおすすめ頂き、ありがとうございます。
 ここ一年ほど、これまでにない更新頻度の落ちようで、それでも作品をおすすめして下さる方がいらっしゃることに、感謝の言葉以外出てきません。なるべく早く観て、出来る限り丁寧な感想を書こうと思います。

 毎日感想を言葉にせずにはいられなかった十年前に始まった沙々雪を、今、読むもの観たものに対して湧き出るものをほとんど文章に起こしていない自分が運営し続けていることに、違和感や悔しさや感慨や、様々な思いがあります。
 そして、ここまで更新頻度の落ちたサイトを、それでもどうにか続けていられるのは、最低限の動きしかなくなってもまだ閉じる決意をせずにいられるのは、こうやって作品をおすすめして下さる方がいればこそです。
 一方的に甘えているばかりではなく、今の自分にできる限りの頻度と内容で、感想を書き続けていこうと思います。
 これからもどうぞ、ほんの時たま、覗いて頂ければと思います。
2014.08.24
 お礼を言わなければ、言わなければと思いながら、先に読了して感想記事を書いてしまいました。
 改めて、『女の子よ銃を取れ』(雨宮 まみ)をおすすめ頂き、ありがとうございました。世の女の子たちはこんなにも苦しみながら生きているのか、という痛みを胸にちくちくと感じ続ける読書でした。

 そして、『ペン』(引間 徹)、『八本脚の蝶』(二階堂 奥歯)、『
ガタカ』のおすすめ、ありがとうございます。いずれもまったく知らない作品、著者で、読むのが楽しみです。『ペン』はすでに古書で手に入れ、『八本脚の蝶』はこれから新刊書店さんで注文をお願いする予定でいます。
 大切に読ませていただきます。
2014.06.02
 途中に休止を挟んで『エレンディラ』(G. ガルシア=マルケス, ちくま文庫)を読了した。めくるめく幻想の世界。逝去をきっかけに読んだが、もっと早く読んでいればよかった。でも同時に、いつ読んでもいい本物の小説でもある。
 短篇「失われた時の海」のなかの「眠っている男の呼吸のせいで空気が薄くなり、家のなかのものが少しずつ軽くなりはじめた。中には宙を漂っているものもあった。」という一節の破壊力。この一節に惹かれるなら、読んでまず間違いない。
 この「失われた時の海」では主人公の男とよそ者の金持ちが海の底に水没した村を訪れる。そこでは「色鮮やかな花が咲き乱れ」る。訳者の木村榮一さんが訳者あとがきで、この部分がA・ポーフィレが紹介するフランスの民話とそっくりだと述べる。そのフランスの民話では上がってこない錨を確かめるために舟乗りが海に潜ると、錨は教会の窓に引っかかっていて、教会には盛装した人々が集まっていた。『エレンディラ』を読み始める前に途中まで読んでいたアイルランドの作家アンジェラ・バークの短篇集『塩の水のほとりで』所収の「胸の奥深く」に、これらと似たエピソードがある。主人公の女性が古い写本に書かれていた話として語るそのお話の舞台は中世のアイルランド。教会でミサをあげていると、屋根の上で何かを引きずるような音がした。みんなが外に出て空を見上げると、船が浮いて、錨が教会の入り口にひっかかっていた。
 明らかに類似するこれらのエピソードのなかで、地上は時に海底であり、時に海から見た空である。こういったイメージは海と空の色の類似性から来ているはずだ。小野不由美さんの『十二国記』シリーズでは、空に海が浮いており、海の上は寿命を持たない仙人たちの世界である。海と空は繋がっており、同時に隔て合うものでもある。人が最も広く触れる人が生身では踏み入ることのできない領域は、人のイメージを徹底的に掻き立てる。
2014.04.16
 自分に似た登場人物の出てくる作品の感想を、客観的に述べるのは難しい。どう頑張っても、彼や彼女を鏡面に見立てての自分語りになってしまう。
 『イッツ・オンリー・トーク』(絲山秋子)の優子や『海を抱く BAD KIDS』(村山由佳)の恵理、『コンセント』(田口ランディ)のユキ。この3人はほとんどそっくりそのまま私自身で、だからこの3つの作品について、まともな感想を述べられたことはない。

 1月に観た『パリ、ただよう花』(ロウ・イエ監督)の感想を言葉にできなかったのも、近い理由だ。けれど、『パリ、ただよう花』の主人公「花」は、私に似ているけれど根幹的なところで違っている。だからこそ、ある意味では、最初に挙げた3つの小説よりもさらに感想を書くことが難しかった。
 私に似た登場人物のことなら自分語りを織り交ぜて話してしまうこともできる。けれど、似てはいても、似ているだけで確かに違う花のことを、似ている部分だけ引き寄せて自分語り的に話してしまったら、花について嘘をつくことになる。花と私の決定的だけれど微細な差をきちんと認識しないことには、感想を書けない。そしてそれが難しくて難しくて、3ヶ月近くが経ってしまった。

 教師である花は、恋人を追って北京からパリへ渡る。しかしパリについた花は早々にこっぴどく恋人にふられ、路上で会った行きずりの男マチューとセックスし、そのままその男と恋人同士となる。

 この映画を観た直後のメモで、私は「ホアが愛を求めているようには見えなかった。ただ、自分の内部に常に巣食うむなしさ、居所のなさ、救いのなさを消し去る方法を探し、世間の皆が口をそろえて「愛があれば幸せだ」と言うから、自分が求めているのもまた愛なのだと思い込んでいる。そう見える。」と書いている。そして数ヶ月を経て、私は花のことを「愛したいし愛されたいのにセックスで愛を台なしにしちゃう女」なのだと納得するに至った。
 ほとんど正反対のことを言っている。それくらい、花のことを自分から切り離して、花という個人として見つめることは難しかった。

 そして、愛を求めてセックスする花という彼女の本来の姿を見つけた今、私は心のなかで花に思わずこう話しかける。
「だめだよ花。セックスの元に愛は生まれない。愛からセックスが生まれてくるんだ。鶏を温めてもヒナは孵らない。あなたは求めるべきものを間違ってる」。

 花の彷徨に行く先はない。出発した場所が間違っていたのだから。どこにも行き着かない。そしてもちろん、「だから」と言って立ち止まることも、引き返すこともできない。ラストシーンの、さまよい続ける花の視線の、今こそようやくその意味を理解できる気がする。
 作品には終わりや果てがあるだなんて、誰が決めたのか。映画の尺は終わっても、花の彷徨は永遠に終わらない。

 さて、ここまで咀嚼に時間のかかった素晴らしい映画を撮ったロウ・イエ監督の作品が、4/19から4/25までの一週間、高田馬場駅にある早稲田松竹(公式サイト)という名画座で三本立てで上映される。『パリ、ただよう花』と、上海が舞台のロマンティック・サスペンス『ふたりの人魚』、南京を舞台に描かれる三角関係『スプリング・フィーバー』。
 ロウ・イエ監督の作品を立て続けに三作も観るだなんて、さぞや疲れることだろうと思う。けれど、それが楽しみでたまらない。
 早稲田松竹も、気になりつつなかなか足を運べずにいた映画館なので、作品も映画館もどちらも楽しみにしつつ、上映を待ちたい。
2014.04.15
 今年の2月にあった、都内の図書館で『アンネの日記』のページが破られるという事件は、私にとってとても衝撃的な出来事でした。
 「本を破る」というのは、私の認識できる世界の外にあることでした。何かを訴えたり発散したりするための手段として、想定することさえできない行為です。驚きより、怒りより、その途方もない行いに恐ろしさを感じたことを覚えています。

 そして、何かをしたい、自分ひとりでもできる何かを、と思い、子供の頃に(たぶん子供向けに編纂されたものを)一度読んだきりだった『アンネの日記』を、増補新訂版できちんと読んでみることにしました。
 鎌倉のたらば書店さんで、仕事帰りにこの本を買った時、上記のようなどこか思いつめた気持ちで『アンネの日記』をレジに差し出したら、店員さんが「破れたりしてないよね? だいじょうぶだよね」とどこかユーモラスにおっしゃっいました。その会話で、余分に入っていた肩の力を抜くことができました。

 3月の上旬から読み始めた『アンネの日記』は今、本文582ページのうち、他の本に寄り道しながら520ぺージまで読み進めています。残りはわずかです。1942年6月12日に始まった日記は、1944年5月22日まで書き進められてきました。
 心のなかの親友キティーに宛てた手紙というかたちで綴られた日記に、アンネは思春期まっただなかの葛藤をありったけ込めています。母との軋轢、理解者のいない苦しみ、決して隠れ家の外から出ることのできない現在、連行されていった多くの学友への罪悪感。
 それでも、アンネは希望を失いはしません。アンネの将来の夢は文筆で生計を立てていくこと。そしていつかは作家になること。母や姉のような平凡な人生ではなく、周囲に喜びを与えられる人物になりたいと願います。
 彼女は隠れ住む日々のなかで、図書館の本を読み、勉強をし、興味の向くことを懸命に調べ、ノートにまとめ、知的好奇心を育てます。彼女は自身の身の危険を知ると同時に、我が身の将来を儚みません。

 私の手の中で、『アンネの日記』のページ数は残り僅かとなっています。終わりが近いことが、はっきりとわかります。
 しかし70年前にアンネが書いていた日記は、日々その一日が一番新しい1ページで、「残りのページ」など一枚もなく、アンネ自身にも次のページに何が書かれるかは決してわからず、そしてその終わりも決して見えてはいませんでした。その最後の1ページを書いている時にでさえ。
 書いていた本人が知らなかった終わりを、わかってしまう私が読んでいる。当たり前で、なおかつこれ以上なく悲しいこの事実を思いながら、残りのページを最後まで繰ります。