米海軍特殊部隊「SEALs」全面協力、現役隊員出演。コピーは「最前線を、追体験。」。唯一のフィクションは脚本だけ、与えられた台本を元に実際に普段自分たちが喋るようにせりふを置き換えたのも SEALs 隊員、設定された状況に対して作中の作戦を練ったのも SEALs 隊員。
これらの触れ込みは関心を引くのに充分過ぎる。そして、実際に観てみてその関心は裏切られはしなかった。実弾を用いた銃撃の音は根本的に響きが違う。
リアリティに重きを置いた作品だから記録映像に近い側面も多少はあるし、その分純粋なフィクションに比べると格段に物語性が薄い。しかし、そうでなければこんな映画を撮る意味がない。驚きとハットトリックの痛快アクションにするなら、SEALs現役隊員を引き込む理由がない。
隊員らの表情、動き、ハンドサインの動きひとつにまで瞠目する序盤から、人間ドラマに比重が移ってゆくエンディングまで、全体の作りも悪くない。エンドクレジットも目を離しがたく、数が多くなかったとはいえ観客がひとりも席を立たなかったのは印象的だった。
プロパガンダ映画であると言えば、むろんそう言えるだろう。しかしひとまずそれは横に置いて、非常に興味深いものを観たことは紛れもない事実だ。
一点に集中することをやめ、感覚を全方位に差し広げ、冷静さを手綱にしながら限りなく意識を低く保つ。高揚した頭は少々のことには反応しなくなるが、低く抑えられた脳はほんのささいな周囲の動きも違えず読み取る。作戦を遂行している最中の彼らは静かだ。無駄なく、静かに、何もかもに神経を張り巡らせる。声はない。ハンドサイン、肩を叩く、それらの決められた動きでもって、彼らはぎりぎりまで出来る限り無音保つ。
こんな場面は、誰もが一度や二度ならず映画や漫画、アニメで観たことがだろう。それが、実際に展開されてゆく。指の動き一本を見てすら、今まで観た映画は大仰にわかりやすいアクションを取っていたのだなと理解できる。
「死と隣り合わせ」という表現があるけれど、彼らは死を自らの内部に孕みながら、それを征服しながら戦っているのだ。
と、単純に彼らの動きに感嘆しているだけでも楽しめる映像ではある。だが、観終えた後、私がどうしても抑えられなかったのは憤りの感情だった。
CIA のエージェントがテロリストに拉致され、その人物を救出する。しかしエージェントが得ていた情報から大規模テロが今まさに進行していることが明らかになり、さらなる大規模作戦が展開される。映画のおおまかなあらすじはこうだ。
冒頭で、「我々は家族を守るために戦っているのだということを忘れないでほしい」といったモノローグが入る(メモに取ったわけではないので正確ではない)。本編中にも、主人公と家族のエピソードが通奏低音として流れている。
家族を守りたいというのはごく素朴な、人間にとって当たり前の感覚だ。しかしそこに国家という大きな枠が介在する時に、当たり前の行動を単純に支持することはできなくなる。家族のための延長にある、家族の住む国土のため。しかしその時、彼らの命は純粋に家族のためにではなく誰かの利権のためにも用いられる。彼らの家族への危機が国によってもたらされる時、家族のためにと言って消える彼らの命には失われる価値がない。
国と人とは何なのだろう。浅はかな私には到底答えることのできないこの問いだけれど、彼らの姿を見て深い憤りで胸が詰まって仕方がないのは、この映画から垣間見えた生命のやりとりがある関係が許しがたいと感じられたからだろう。憤りというのは腹立たしさと悲しみの混ぜ合わせであると思う。家族のため、仲間のためと言いながら国のために死んでゆく彼らは悲しい。
正しさなど語りようもないし、命を失うことを認めた上で戦ってくれる人々がいなければ今私たちは生きてゆけない。それでも、そうやって続く限り、そうしなければ続かないのである限り、この平和で変哲ない日々を屈託なく受け入れることはできない。
これらの触れ込みは関心を引くのに充分過ぎる。そして、実際に観てみてその関心は裏切られはしなかった。実弾を用いた銃撃の音は根本的に響きが違う。
リアリティに重きを置いた作品だから記録映像に近い側面も多少はあるし、その分純粋なフィクションに比べると格段に物語性が薄い。しかし、そうでなければこんな映画を撮る意味がない。驚きとハットトリックの痛快アクションにするなら、SEALs現役隊員を引き込む理由がない。
隊員らの表情、動き、ハンドサインの動きひとつにまで瞠目する序盤から、人間ドラマに比重が移ってゆくエンディングまで、全体の作りも悪くない。エンドクレジットも目を離しがたく、数が多くなかったとはいえ観客がひとりも席を立たなかったのは印象的だった。
プロパガンダ映画であると言えば、むろんそう言えるだろう。しかしひとまずそれは横に置いて、非常に興味深いものを観たことは紛れもない事実だ。
一点に集中することをやめ、感覚を全方位に差し広げ、冷静さを手綱にしながら限りなく意識を低く保つ。高揚した頭は少々のことには反応しなくなるが、低く抑えられた脳はほんのささいな周囲の動きも違えず読み取る。作戦を遂行している最中の彼らは静かだ。無駄なく、静かに、何もかもに神経を張り巡らせる。声はない。ハンドサイン、肩を叩く、それらの決められた動きでもって、彼らはぎりぎりまで出来る限り無音保つ。
こんな場面は、誰もが一度や二度ならず映画や漫画、アニメで観たことがだろう。それが、実際に展開されてゆく。指の動き一本を見てすら、今まで観た映画は大仰にわかりやすいアクションを取っていたのだなと理解できる。
「死と隣り合わせ」という表現があるけれど、彼らは死を自らの内部に孕みながら、それを征服しながら戦っているのだ。
と、単純に彼らの動きに感嘆しているだけでも楽しめる映像ではある。だが、観終えた後、私がどうしても抑えられなかったのは憤りの感情だった。
CIA のエージェントがテロリストに拉致され、その人物を救出する。しかしエージェントが得ていた情報から大規模テロが今まさに進行していることが明らかになり、さらなる大規模作戦が展開される。映画のおおまかなあらすじはこうだ。
冒頭で、「我々は家族を守るために戦っているのだということを忘れないでほしい」といったモノローグが入る(メモに取ったわけではないので正確ではない)。本編中にも、主人公と家族のエピソードが通奏低音として流れている。
家族を守りたいというのはごく素朴な、人間にとって当たり前の感覚だ。しかしそこに国家という大きな枠が介在する時に、当たり前の行動を単純に支持することはできなくなる。家族のための延長にある、家族の住む国土のため。しかしその時、彼らの命は純粋に家族のためにではなく誰かの利権のためにも用いられる。彼らの家族への危機が国によってもたらされる時、家族のためにと言って消える彼らの命には失われる価値がない。
国と人とは何なのだろう。浅はかな私には到底答えることのできないこの問いだけれど、彼らの姿を見て深い憤りで胸が詰まって仕方がないのは、この映画から垣間見えた生命のやりとりがある関係が許しがたいと感じられたからだろう。憤りというのは腹立たしさと悲しみの混ぜ合わせであると思う。家族のため、仲間のためと言いながら国のために死んでゆく彼らは悲しい。
正しさなど語りようもないし、命を失うことを認めた上で戦ってくれる人々がいなければ今私たちは生きてゆけない。それでも、そうやって続く限り、そうしなければ続かないのである限り、この平和で変哲ない日々を屈託なく受け入れることはできない。
2012 年 | アメリカ | 110 分
原題:Act of Valor
監督:スコット・ワウ、マイク・マッコイ
キャスト:ロゼリン・サンチェス、ジェイソン・コトル、アレックス・ビードフ、ネストール・セラノ、エミリオ・リベラ
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