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『アニマル・キングダム』
 愚かな少年の話だ。初めに、少年はモノローグで語る。
 「子供は環境に合わせて生きるしかない。これが自分に与えられた境遇だった。それだけのことだ」
 これは賢しらで要領のいい子供のせりふだ。彼のモノローグは家族を冷静に描写し、あたかも彼を世事のの仕組みを理解した観察者であるかのようなていに見せる。
 だがしかし、彼には家族のことなど、自分の周囲にあることどもの成り立ちなど、何一つ見えていやしないのだ。

 ヘロインの過剰摂取で母が死に、まだティーンネイジのジョシュアは疎遠になっていた母の実母である祖母に連絡を取り、身を寄せる。
 この家が、ひどい。ポープと呼ばれるアンドリューを筆頭に、クレイグ、ダレンの三人の伯父、そして彼らの友人であるバズ、誰もが警察に常時睨まれる犯罪者である。
 その親族の中にあって、ジョシュアは言うのだ。「子供は環境に適応するだけだ」と。
 しかし、大人である観客の目にはどう紛れようもなく明らかなこの歪な一家の姿が、まだ子供のジョシュアには見えていない。

 激昂家でありもっとも残虐、そして家族の犯罪の中心にいるポープ。警察が検挙を狙うのもこのポープである。
 が、この劣悪な環境の原因はポープではない。彼らの母であり、ジョシュアの祖母であるジャニーンだ。

 女親と息子というのはとかく異常な関係に陥りがちである。健全な親子愛で結ばれていてすら、そのつながりは母と娘の関係とは明らかに異質である。私はまだその理由を言葉で説明はできないでいるけれど、とにかくその事実ははっきりしている。そこにつけて、この母である。

 ジャニーンこそは正真正銘の売女である。すべての男とセックスしなければ生きてゆけないタイプの女だ。彼女の息子と生まれついた時点で、彼らは彼女の恋人であることを要求される。二時間のなかで、何度母が息子にキスを求めるシーンが、濃密な口づけが展開されたろう。
 母は息子たちを愛しているのではない。自分への愛に満ちた息子に囲まれる自分に溺れているのである。

 これがこの家族の真実の姿である。女であるがゆえに(ジャニーンへの愛の条件を満たしていないがゆえに)家族からはじき出された娘、つまりジョシュアの母まで含めて、すべての登場人物はこの母の被害者だ。
 が、ジョシュアにはこの真実は見えていない。なぜなら彼はまだ愚かな子供だからだ。

 アニマル・キングダム。母を中心とした人間ならざるあまりに動物的な巣がこの映画の舞台である。ジョシュアには人間に立ち返る道も残されていた。だがしかし彼はその道を行かなかった。巣のルールに取り込まれ、身を堕して、彼もまた動物の王国の住人となるのだ。

 外から観た時に思ったことも付け加えておく。
 音楽の使い方の下手さが印象的な映画だった。他にも端々からテクニックのなさが目についた。監督はおそらくストーリーを語る気がないのだろう。撮ってみせるだけで観客を二時間退屈させない世界を構築できるのはそれ自体力であり魅力かもしれないけれど、あからさまなほどストーリーテリングに興味のなさそうな映画だった。
 こういう、あまりに素材そのままの映像を見ると、象徴化なくして作品というのは成り立ち得ないのだなと感覚で理解できる。
2010 年 オーストラリア 113 分
原題:Animal Kingdom
監督:デビッド・ミショッド
キャスト:ベン・メンデルソーン / ジョエル・エドガートン / ガイ・ピアース / ルーク・フォード / ジャッキー・ウィーバー / サリバン・ステイプルトン / ジェームズ・フレッシュビル
>> eiga.com
2012.03.12