映画 > 洋画
つらさはある。優しさという救いもある。 『バベル』
 みくびって観始めた。公開当時に話題作だったし、それは最近の私の映画の指向と合致しない。好む映画の方向性をあまり信頼していない知人に薦められた映画であったこともその理由のひとつだ。
 観終わって、『BIUTIFUL ビューティフル』のイニャリトゥ監督の作品だと知った。そんなことも知らずに観ていたわけだけど、なるほど、そりゃあこれだけ重いわけだ、と思った。作品が鑑賞者の心にどれだけの重量、あるいは圧迫を与えるかは、作った人と観た人の相性によって変わる。私はイニャリトゥ監督が作品によって与えてくる重みと相性が良いのだと思う。

 作品の舞台はモロッコ、アメリカ、日本、メキシコである。
 モロッコにて、家畜を狙うジャッカルを追い払うために隣人からライフルを購入した男は、息子ふたりに家畜の世話を任せる。
 アメリカの平凡な家庭で、主人夫婦から子供たちふたりの子守りを任されたメキシコ人女性は息子の結婚式を間近に控えている。主人夫婦は旅行先から帰って来られず、代わりのシッターも見つからない。
 日本の高校生チエコは、聾であるがために世界からの疎外感に苛まれている。先だって母が亡くなり、父とは母の不在をうまく共有できないでいる。

 アメリカの映画であるので舞台に選ばれることに不思議はない。隣国のメキシコは監督の出身地でもあり、ストーリー上も登場する必然性が明確だ。
 残りのモロッコと日本については、政治的な状況に詳しくない私にはこのふたつの国がどれくらいの必然性を持って舞台に選ばれたのかわからない。が、日本人の観客にとって、日本が舞台に選ばれたことはこの作品を鑑賞する上で非常な幸運であったと思う。
 聾のチエコは完全に耳が聞こえない。友人のひとりに片言でならば喋ることができる少女がいるが、その日本語が「どれだけ不自然であるか」は、おそらく日本語を母国語としている人間だけが本当に体感として理解することができる。
 そしてまた、「日本がどう描かれているか」を基準に、モロッコ、メキシコ、アメリカという見知らぬ国がどれくらい現実に近く描かれているかを想像することもできる。

 たった 140 分で 4 つの家族を描く。無謀ですらある試みなのに、それは成し遂げられた。

 遠い、互いに隔てられた世界でまったく無関係に暮らす人々。タイトル「バベル」は創世記のバベルの塔の物語から来ているわけで、違う言語を話し、散らばって暮らし、互いに相手を知らない人間たちが登場する。
 それが、巧妙に、わずかずつ繋がって、一本の映画として撮り上げられる。
 それぞれの国でその国の音楽を用いることで空気を変え、この地球というひとつの星がどれだけ隔てられているかを直感的にもわかるように示す。

 想像をフルに回転させて観て欲しい。海外で起こった事件のニュースを観る。テレビでほんの数分取り上げられるだけの事件で、実際にはこの映画で描かれたほどの、それぞれの人間たちにとっての人生を揺さぶるドラマが起こっている。悲惨でもありえるし、優しさでもありえる。
 そこで起こった事実を知るすべは、遠い場所で違う言語で暮らす私たちには絶対にない。たとえ知り得たところで、人間は自分の手の届く範囲の外にまで気を配って生きてはいられない。すべてを知ってしまったら、人間はもうまともに生きてはいられないだろう。自分の目に入る暮らしだけがすべてだ。

 世界はもうひとつには戻らない。だが、それでも、目の前で誰かが倒れたら手を差し出すこと、身近にいるたったひとりの手を強く握ってやることならば、誰にでも必ずできるはずなのだ。
 その救いというにもささやかな現実が、静かに、深く、洞察をもって描かれる。

 イニャリトゥ監督はこの上なく人間に優しいと、この映画を観て確信した。
2006 年 | アメリカ | 142 分
原題:Babel
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
キャスト:ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司、菊地凛子
≫ eiga.com
2013.02.24