2010 年 スペイン・メキシコ 148 分
原題:Biutiful
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
キャスト:ハビエル・バルデム / マリセル・アルバレス / ハナ・ボウチャイブ / ギレルモ・エストレラ / エドゥアルド・フェルナンデス / ディアリァトゥ・ダフ / チェン・ツァイシェン / ルオ・チン / ルーベン・オカンディアノ
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バルセロナにウスバルという男が住んでいる。男は非正規の仕事に手を出して生計を立てている。別れた妻との間に幼い娘と息子がいる。二ヶ月後に癌で死ぬ。
この状況において起こり得ることが、特別な関連やカタルシスを生む劇的な構成は無しに、ひとつひとつひたすら四角いフレームに切り取られ、映像に収められてゆく。
死がすべての終焉だとするなら、この映画は始まった時点で終わっている。ウスバルは今まさに死にゆく人間なのだから。けれど、人の生はひとりの時間に収まるものではない。ひとはひとと関わり、生きているということは周囲の人間に常に波紋を起こし続けてゆくということだ。ウスバルの生は娘に、息子に、彼が関わったすべての人々のなかに、姿も言葉も価値基準も変えながら、確かに軌跡を残してゆく。
観終えた時、自分のつく息が重かった。感動や苦しさでではない。これは死が登場する映画だけれど、少なくともウスバルの死に関しては、私は悲しさを覚えはしなかった。重すぎる映画を観た時に感じる耐え難い辛さもなく、ただ、ウスバルというひとりの男の生きた姿が私の深くまでひたすらに沈み込んで来た。
その沈んでゆく質量の行く先に果てがないことで、私は自分の胸のうちが底なしなのだと知った。感動の込み上げてくる映画ではない。作品そのものが、さらにはウスバルの存在のそのものが、私のなかにまるごと沈み込んできた。めったに出会わない感覚を味わった。
正直に言って、生と死の物語には食傷している。この映画だって、存在を知った時には「別に観るほどのこともないか」と思っていた。それでも、「よくあるパターンのひとつとしてざっと観て終わり」にはできない重量をいっぱいに湛えた映画だった。
ウスバルを演じたバルデムがまたすごい。あのひとが自分を見つめる視線の静謐さはどうだろう。一度死んだことがあるひとみたいだ。
この映画には、さまざまな意味で死の一歩手前でかろうじて生きる人々が現れる。不法就労の中国人たち、不法滞在のアフリカ人たち。日本人のほとんどが体験する失敗は、即座に自らの死につながるものではない。けれどこの映画では、貧しさのなかで明日の命も知れない人々が生きている。賭けられるものは命しかない。これが駄目なら死ぬしかない。命を賭けて生きるということは、たぶん私には一生かけてもわからない。
そんな人々の横で彼らに仕事を斡旋し、顔をつなげながら収益を上げるスペイン人のウスバルは、間違いなく恵まれた上位者である。うらやまれ、時に逆恨み的に謗られすらする立場にいる。
怒声を上げる彼らを黙らせるのは簡単だろう。自分が死の間際に立つ人間だと公言すればいい。しかしもちろん、心の根が愚かなほどの優しさでできたウスバルはそうはしない。腹立たしいほどに沈黙を守り、自分に出来る限りの行動でもって彼らに応える。
この映画のすべての価値はウスバルのこの人間性にあると言っても過言ではないと思う。
人が「死にたくない」と純粋に思う時、彼は死を押し留めたいのだろうか。生を引き留めたいのだろうか。そのどちらであるかは、彼の生き方をそのものを示していると私は思う。