アンジェラ・バークの『塩の水のほとりで』を読了した。アイルランド・ダブリンの作家である。
私にとってアイルランドは特別な国だ。小学三年か四年の時、教室内に置かれた小さな本棚に『妖精王の月』というアイルランドが舞台の小説があった。主人公の少女が妖精の世界と人間界を行き来する典型的なファンタジーだったのだけど、その本の装幀が美しかった。当時から曲がりなりにも読書家であった自分に、愛書家の要素が加わった最初の瞬間だ。
深い関心を抱いてきたとか、折に触れて調べてきたとか、そういう大仰な話はない。それでも、観た映画や触れた作品にアイルランドの要素があるとそれだけでその作品らは特別さを増す。フランシス・ベーコンの描いた絵や恋愛映画『P.S. アイラヴユー』。最近ではアイルランド移民の労働が描かれたドキュメンタリー『空中ランチ』やそこから知ったアイリッシュ・アメリカンのアーティストSOLASのコンサートにも足を運んだ。
自分から近づいていくより、近づいてきてくれるものを受け入れる方が好きだ。
これらはどれも「アイルランド」を理由に触れた作品ではないけれど、なおかつアイルランドにまつわるもとして私のなかに記憶され、私のなかのアイルランド観を育てている。
『塩の水のほとりで』は昨年のブックカーニバル in カマクラで姉妹書林さんから購入した(今年のブックカーニバルは行けなかった。悔しい)。複数の本を並行して読むやりかたを導入してみているところなので、読み始めてから読了まで二ヶ月もかかっている。まあそれはいいとして、購入から読了までおよそ一年というのは、積読がやたらと多い私にしては早い方だ。これもどうでもいいのだけど。
閑話休題して、『塩の水のほとりで』はアイルランドの若い女性をメインとして描かれた短篇集である。正直に言って、翻訳は読みづらかった。でもそれはとにかく棚上げにして、いまだ踏み入ったことのない生身のアイルランドにほんの少し触れた気分にさせてくれる一冊だった。言葉通り、生々しいということだ。ファンタジックな要素はなく、決して恵まれた歴史を持たないアイルランドという国に生を受けた人々の姿が、その人の人生そのものが透け見えるような独特の距離感を持って描かれている。
どの話も、基本的に重苦しい。息がつまって胸の底に重しを入れられたような気分になる話が多い。見たくないものに直面させられる感じだ。でも、生きるとは概してそういうことなのだと思う。悲しみに触れないことではなく、悲しみに際してなにがよりどころになるかが人生なのだろうというようなことを思う。
邦訳に際して、作者からのまえがきが寄せられている。そこにアイルランドと日本を見比べての作者の言葉がある。
「私たちの祖先が遭遇したであろう多くの困難や死の悲しみは、彼らの物語を通して今も私たちの心に響く。しかしアイルランドの人々も日本の人々もそれらの苦しみや悲しみをロマンティックな話に美化するのではなく、「子どもの亡霊岩屋」の伝説のように、超自然的な世界を信じ、その世界に彼らの気持ちの捌け口や、表現のよりどころ見出そうとしているのである。」
子どもの亡霊岩屋とは作者が一九九九年に日本に三ヶ月滞在した際に松江に旅して訪れた場所だそうである。彼の国を知ることは自国を知ることであり、その逆もしかりである。というようなことを思わず考えさせる文章だと思う。
『塩の水のほとりで』(By Salt Water)は収録されたいずれかの短篇のタイトルではない。「この本の英語版の出版の準備をしている時に思いついた」のだそうだ。「自分が何度も何度も海について、そして涙や、その他の塩分のある体液について書いてきたことに気がついた」と。遠地にあって海と山に望郷の思いを馳せる感じも、また日本人には簡単に理解でき馴染める感覚だと思う。多くのものを、日本の人はこの本と共有できると思う。それが女の体を持って生まれてきた人であるならば特に。
私にとってアイルランドは特別な国だ。小学三年か四年の時、教室内に置かれた小さな本棚に『妖精王の月』というアイルランドが舞台の小説があった。主人公の少女が妖精の世界と人間界を行き来する典型的なファンタジーだったのだけど、その本の装幀が美しかった。当時から曲がりなりにも読書家であった自分に、愛書家の要素が加わった最初の瞬間だ。
深い関心を抱いてきたとか、折に触れて調べてきたとか、そういう大仰な話はない。それでも、観た映画や触れた作品にアイルランドの要素があるとそれだけでその作品らは特別さを増す。フランシス・ベーコンの描いた絵や恋愛映画『P.S. アイラヴユー』。最近ではアイルランド移民の労働が描かれたドキュメンタリー『空中ランチ』やそこから知ったアイリッシュ・アメリカンのアーティストSOLASのコンサートにも足を運んだ。
自分から近づいていくより、近づいてきてくれるものを受け入れる方が好きだ。
これらはどれも「アイルランド」を理由に触れた作品ではないけれど、なおかつアイルランドにまつわるもとして私のなかに記憶され、私のなかのアイルランド観を育てている。
『塩の水のほとりで』は昨年のブックカーニバル in カマクラで姉妹書林さんから購入した(今年のブックカーニバルは行けなかった。悔しい)。複数の本を並行して読むやりかたを導入してみているところなので、読み始めてから読了まで二ヶ月もかかっている。まあそれはいいとして、購入から読了までおよそ一年というのは、積読がやたらと多い私にしては早い方だ。これもどうでもいいのだけど。
閑話休題して、『塩の水のほとりで』はアイルランドの若い女性をメインとして描かれた短篇集である。正直に言って、翻訳は読みづらかった。でもそれはとにかく棚上げにして、いまだ踏み入ったことのない生身のアイルランドにほんの少し触れた気分にさせてくれる一冊だった。言葉通り、生々しいということだ。ファンタジックな要素はなく、決して恵まれた歴史を持たないアイルランドという国に生を受けた人々の姿が、その人の人生そのものが透け見えるような独特の距離感を持って描かれている。
どの話も、基本的に重苦しい。息がつまって胸の底に重しを入れられたような気分になる話が多い。見たくないものに直面させられる感じだ。でも、生きるとは概してそういうことなのだと思う。悲しみに触れないことではなく、悲しみに際してなにがよりどころになるかが人生なのだろうというようなことを思う。
邦訳に際して、作者からのまえがきが寄せられている。そこにアイルランドと日本を見比べての作者の言葉がある。
「私たちの祖先が遭遇したであろう多くの困難や死の悲しみは、彼らの物語を通して今も私たちの心に響く。しかしアイルランドの人々も日本の人々もそれらの苦しみや悲しみをロマンティックな話に美化するのではなく、「子どもの亡霊岩屋」の伝説のように、超自然的な世界を信じ、その世界に彼らの気持ちの捌け口や、表現のよりどころ見出そうとしているのである。」
子どもの亡霊岩屋とは作者が一九九九年に日本に三ヶ月滞在した際に松江に旅して訪れた場所だそうである。彼の国を知ることは自国を知ることであり、その逆もしかりである。というようなことを思わず考えさせる文章だと思う。
『塩の水のほとりで』(By Salt Water)は収録されたいずれかの短篇のタイトルではない。「この本の英語版の出版の準備をしている時に思いついた」のだそうだ。「自分が何度も何度も海について、そして涙や、その他の塩分のある体液について書いてきたことに気がついた」と。遠地にあって海と山に望郷の思いを馳せる感じも、また日本人には簡単に理解でき馴染める感覚だと思う。多くのものを、日本の人はこの本と共有できると思う。それが女の体を持って生まれてきた人であるならば特に。
原題:By Salt Water
訳:渡辺洋子
初版:2008年7月 冬花社
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