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『逝年』 石田 衣良
 前作の『娼年』は特別な小説だった。ほとんど完璧と言っていいバランスを持っている本だった。初めて読んだのは、振り返れば 10 年以上前だ。10 年の間で読み手である私は変わった。今初めて『娼年』を読んだら、当時とはまったく違う反応をするはずだ。小説の感想にこういうことを書くのはあけすけ過ぎて間違っていると自分で思うけれど、女性と性を描いた『娼年』を、私は自身がまだ処女であった時に読んだ。経験の前と後、両方であの本を読めたことは私にとって重要な体験だった。

 続編というのは、どんな創作家にとっても必ず難しいものであると思う。『娼年』が私にとってパーフェクトに限りなく近い一冊であった分、私という読者を満足させることは、この一作にとってなおさらハードルの高いものであったはずだ。
 それが成し遂げられたかどうかは、まだわからない。けれど、不満足は生まれた瞬間即座に自身の存在を主張するものだから、それを感じないということはきっと『逝年』は私を充足させたのだと思う。

 女性に身体を売るボーイズクラブに身を置くリョウと、クラブのオーナーである御堂静香、そして彼女の一人娘、咲良。前作『娼年』では、リョウが御堂静香にスカウトされ女性を相手にする仕事を始め、女性の性の多様さと不思議さを知り、御堂静香がひとつの事件からクラブを不在にするところまでが描かれた。

 『娼年』はそれ自体で完璧に完結した一冊だ。“続編” というものの難しさは、続編が求められる物語ほど完成度が高く、“続編” は蛇足となることをほとんど運命づけられているからだ。細心の注意とテクニックと決意を持って対峙しなければ、その運命を覆すことはできない。続編が作品として成り立つことは、ほとんど奇跡と言っていいようなことなのだ。

 『娼年』の主旋律は女性の性だった。リョウが客として触れる幾人もの女性たちの、それぞれが抱いているその人だけの欲望。リョウは女性が報酬を支払って買った人間だ。それだから、女性たちはなにひとつ遠慮することなく自らの欲を発露することができる。(金を払って買った相手だからというだけではむろんなく、リョウに「見せていい」と思わせるだけの雰囲気や知性があるからである。)

 『逝年』では『娼年』と同じくらいの人数の女性たちが登場するが、リョウとリョウの客である女性との交歓は、主旋律から通奏低音へと変化している。その存在はリョウと御堂静香と御堂咲良、三人の関係を語るためのモチーフとして登場する。
 『逝年』は、『娼年』で語られたものをさらに押し広げる話ではない。『娼年』はリョウが開いてゆく物語であった。『逝年』は御堂静香が閉じてゆく物語だ。『娼年』においては軸でありつつも背景に溶け込んでいた三人の関係が、『逝年』に来てとうとう主眼に入って語られる。

 「『娼年』はほとんど完璧な小説だった」と言った。「ほとんど」というのは当たり前のことで、本当に完璧な小説などこの世のどこにもあり得ない。そして『逝年』は、『娼年』が完璧ではなかった理由、その満ち切っていなかった部分を象徴する事象を見つめている。
 『逝年』は『娼年』の続きではなく、裏の面でもない。『娼年』が一冊の本として限りなく完璧であるために描くわけにはいかなかった、『娼年』においては取りこぼさざるをえなかったものが、今度は描かれている。
 『逝年』ももちろん、完璧ではない。何度続編を繰り返しても小説に完璧はない。

 完璧ではないが、『娼年』の続編として、そして『娼年』の終わりとして、これ以上の一冊は望むべくもない。
 リョウと、彼が愛した御堂静香と、二人を支えた咲良と、そして三人を取り巻くクラブのメンバーに再び出会えたことは、『娼年』の続編など考えたこともなかった私にとって、望外の歓びだった。
初版:2008 年 3 月 集英社
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2013.03.21