メモ
2013.09.14
東京都写真美術館
2013.7.20-9.23
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1864.html

作品にはキャプションがない。チケットを見せた受け付けで作品リストを渡される。
作品リストを持ったまま会場に入ると、最初のセクション「Scene」を見る。
並んだ写真はどれもどこか不気味だ。撮影者の意図が見えないからだ。野球場、アイスリンク、線路。なぜ撮影者がシーンを撮ったのか、そこに何を見てカメラを向けたのかがわからない。
確かな意思は感じる。撮影者の視線が対象にむけて定まっているのはわかる。しかしこちらにその視線の理由が伝わってこない。確かに意思を感じる写真であるのに、どこを見ていいかわからない。

渡された作品リストを思い出す。目線を紙の上に落とす。はっとする。

そこに並んでいる文字列は、特攻出撃の基地の後、南満州鉄道、サイパン島在留邦人玉砕があった崖に続く道。
撮影者は偶然出会ったモチーフに何かを感じてカメラを向けたのではない。撮るテーマを持ち、テーマのためにモチーフを決定している。

目線を上げ写真を見直す。先ほどとはまったく種類の違う、先ほどよりもずっと重苦しくなった不穏さを写真から感じる。

不穏さと重苦しさ。この二つはこの展示を最後まで支配し続ける。
写真の撮影地が歴史の上で何を演じてきたかを知りようやく、鑑賞者は場に最初から充満していたこの二つに出会う。

展示は台湾、韓国、サハリンを経て、平和記念日の広島、新年の靖国神社、避難した飯舘村にたどり着く。

2011年3月11日、歴史に大きなうねりを与えたこの日はいずれ過去になる。しかしまだ、私たちはこの日を過去にはできない。振り返ることはできない。今できることといったら、とにかく考え続けることだけだ。

直接見ることはできない「歴史」というものを、場、風景、建物から見る。今はまだ振り返ることのできない現在を、過去の歴史を振り返ることで見る。
見えないものを、見えたもの見えるものから明らかにしようとする行い。その試みがこの展示であるように思える。

「見えるものと見えないもののあいだ Between Visible and Invisible」というセクションでは、歴史上の知識人の手書きのノートや原稿を彼らの眼鏡を通して撮影している。
マハトマ・ガンジー、坂口安吾、安部公房と並んだ最後に、谷崎潤一郎が夫人松子へ宛てた手紙があった。谷崎は私にとって最も重要な作家だ。谷崎の肉筆を谷崎の眼鏡を通して見る。思いがけない体験に動悸がした。