Perfume: The Story of a Murderer
2006 ドイツ
監督 : トム・ティクバ
キャスト : ベン・ウィショー / レイチェル・ハード=ウッド / アラン・リックマン / ダスティン・ホフマン
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あらゆる匂いをかぎ分ける才能を持って生まれたジャン=バティスト・グルヌイユ。しかし彼自身はまったくの無臭、匂いを持たない人間だった。
自らの存在を証すために、グルヌイユは人間の女の香りから至高の香水をつくることだけを求め続けた。
寓話のように語るナレーションを間にはさみながら、グルヌイユの誕生から死までをつづった映画。
グロテスクな映画も暴力的な映画も観てきたけど、ここまで生理的に気持ち悪くなった映画は初めてだった。そして同時に、こういう映画はそのおぞましさに馴れるのではなく気持ちの悪さを感じながら観ないともったいないのだということも思い知らされた。
ただ、この気持ち悪さは私が女だということも大きく関係しているかもしれない。この映画のなかで、“女” はグルヌイユの香水のために狩られる存在だ。
人として育てられなかったヒトは人になれない。犬が人を慕うように人を愛することもあるだろうけれど、同時に獣が人の命を奪うことをためらわないように人をないがしろにできる。
生母に見殺しにされ物心つくまでものとして扱われて育ったグルヌイユにとって、人は同属の生き物ではない。だからこそグルヌイユは香水をつくるというただそれだけの目的しか見ず、そのために女たちを殺すことをためらわない。そのときグルヌイユが感じているのは薔薇をつむのと変わらない感覚だろう。
ナレーションの語るところによれば、グルヌイユが至高の香水をつくることに取りつかれたのは自分の存在を残すためだったという。匂いに特化したグルヌイユにとって、無臭であるということは存在しないというのと同義だった。
他人の記憶に残ること、それはだれかに見つめられることだ。けれど彼の香水は愛を振りまいたものの、それは彼の “見てほしい” という望みとはまったく別のものだった。彼は自分の存在に気づいてもらうために至高の香水を作り上げたのに、誰も彼を見なかった。
彼の香水がもたらすものは愛だけだ。愛は慈しみを伴わなければ狂気になる。だからこの映画はあのエンディングを迎える。
途方もなく馬鹿げた話ではある。けれど、映画の価値は真実味ではない。非現実的な設定下で異常な人間をえがくことでこそ見えるものはあるのだ。
この映画を観て思ったのは、人間が悪魔になるとするなら周りの人間がそいつが悪魔になるようにと育てたときだということだ。
グルヌイユが最初に会った赤毛の女が彼を抱きしめてやっていたなら、この映画のようなことは決して起こらなかっただろう。