初版:2007年11月 ポプラ社
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両親の離婚をきっかけに、有加とその母は祖母の家に転がり込んだ。
蕗さんと呼んで親しんだ祖母と、その周囲の個性的な人々に愛されて育った有加。一人称で書かれた有加の半生。あたたかく懐かしい、きらめく日々の光景をつづった小説。
やがて目覚めない朝が来る。“いつか” のように曖昧さを残さない “やがて” という言葉には、今とつながっている先の時間に必ずあるのだというニュアンスがある。
それは絶望だろうか。目覚めない朝は必ずやってくる。人にとってそれは絶望だけだろうか。
大島さんの書いたこの小説のなかで、それはちがう。やがて目覚めない朝が来ることは、ただ事実である。事実以外の要素もたくさん持っているかもしれないが、事実以上の恐ろしいなにか、威圧的ななにかではない。
作中の視点である有加。彼女はその祖母である蕗さんと、その知人たちに囲まれて育ってゆく。作中で有加は、10 歳から結婚を迎えるまでに成長する。なのでもちろん、祖母の世代の知人たちには亡くなってゆく人たちがいる。
けれど私は、この小説を読んで泣いていない。悲しみよりも、見送ったという感慨の方が強い。人の死は大きな出来事だけれど日常でもある。年を経れば経るほどある種の親しみが起こる。
強い悲しみを感じない理由のひとつに、大島さんが無遠慮に登場人物たちを暴くような書き方をしていないからということがあるだろう。
視点はあくまで有加に固定されている。それぞれが有加に見せた顔しか読み手は知らない。癖のある人たちばかりだから存在感はばりばりにあるけれど、内心でなにを本当に思っていたのか、そんな所は一切明かされない。だれも彼ものすべてを知ることはできない。語られないことも、曖昧なままの過去もある。
けれどそんな距離感のなかで書かれているからこそ、それぞれの生を俯瞰するように、目覚めない朝までのそれぞれの歩み方として彼らの日々を見ることができる。そして、そんな見方から浮き上がってくるものがあった。
それは、生きて、人とつながって、その人が自分のなかに残ってゆくという大きな流れ。人はひとりではなく、自分は誰かではない。どちらも大切な事実で、そうやって生きてゆくことで自分が生まれてゆく。
読みやすい文章に乗せられたままするすると読み続けて、最後の一文に私は強くそう思った。悲しみにとらわれ過ぎたまま読んでいては、あるいはそういう書き方をされていたら、きっとここに気がつくことは出来なくて、重みはあるけれど暗い印象の話になっていただろう。これはそういう小説ではない。死までもひっくるめて、人が生きている小説だ。
読み終わった今よりも、しばらく後になって思い出したころにより一層の大きな存在感を放つ本になっていそうな予感がする。