初版:2006年11日 マガジンハウス
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大学の冬休み、実家に帰るとオカマがいた。助産所を営む母と、母の元で出産体験をしたというオカマのミカさん。3 人で過ごす年末。――「ゆくとし くるとし」
自分をミーナと呼ばせる母とふたりきりの姉弟、そして、ときどき変わる父親。“僕” が小学校に入学する日、姉の言葉は一度消えてなくなった。――「僕らのパレード」
2 つの短編を収録。
だれもが落ちてしまう可能性を持っているちょっとしたささいな穴。そこに実際につまずいてしまう人がどれくらいいるのかわからないけれど、表題作の「ゆくとし くるとし」にも、同時収録の「僕らのパレード」にもそんな人々が登場する。
ちなみに、私は自身もそういうひとりだと思っている。「ゆくとしくるとし」の語り手、トリコの言うことが私には少しだけ理解できる気がする。
「ゆくとし くるとし」でも「僕らのパレード」でも、読後に残るものは “これでいいという肯定感” だと思う。幸せでも希望でもない。そんな大げさなものではなくて、今のままでいいのかもな、間違っててもそのときはそのときだ、と思える自分への肯定感。
それは見方によっては開き直りかもしれないしお気楽思考かもしれないけれど、それは悪いことではないはずだ。深刻な顔で悩んだからといってなにが見えるわけでも、諦めて閉じこもったからといって平穏が手に入るわけでもない。
人によってはそんなことあたり前じゃないの、と呆れ顔をするかもしれない。けれどそのあたり前に気づくことも、気づいてから心をオープンにして受け入れることも、難しい人には難しいのだと思う。その速度は、人によってばらばらだ。本当に、てんでばらばらだ。
私は残念ながらそんな肯定感を手放しに自分のものにすることはまだできなくて、これからもしばらくの間ああだこうだと考え続けるのだと思う。けれど、それも含めて仕方ないよな、とは思っている。
そういう自分のやり方は人に否定されやすくてしょっちゅうへこたれるけれど、こういう本に触れると、自分はその自分のやり方に納得していたのだということを思い出す。